―存在とは何か

真理への飽くなき追究

―哲学について

―哲学について
 
あなた哲学と聞いて何を思い浮かべますか。
哲学なんて、難しい事をあーでもない、こーでもないと永遠と議論を繰り返すだけの実生活には何も役にたたない、時間の無駄!なんて思っている方が大半だと思います。
そんな事するんだったら、もっと別の事に時間を使うべきだと考えている方がほとんどでしょう。
でも、別の事って何の事ですか。将来の為になる事?もっと楽しい事?
 
でも少し待ってください。
将来の為になる事に時間を使うと言いましたが、将来の事に時間を使わなければいけないのはなぜなのでしょうか?いったいそれは誰が決めたのでしょうか?あるいは自分自身がそう思い込んでしまっているだけなのでしょうか?今の時間を将来の事の為に時間を使い続けるのであれば、今は永遠に未来の奴隷という事でしょうか?屁理屈でしょうか?(笑)
 
あるいは楽しい事の為に時間を使うのであれば、そもそも楽しいとは何でしょうか。私たちはなぜ楽しいと感じるのでしょうか。楽しいという感情は一体何を表しているのでしょうか?
 
哲学とはこういう事を考える営みです。
つまり、ある結果を生じさせている妥当な原因を認識する事です。
つまり先ほどの例でいえば、「今の時間は将来の為に使わなければならない」という観念を生じさせている妥当な原因を認識していく事や、「楽しい」という感情を発生させる妥当な原因を認識していく事です。
もう一つは物事に共通あるいは内在している普遍的な事、即ち真理と呼ばれるものを認識していく事です。
 妥当な原因を認識する事、普遍的な事を認識する事、この2つが哲学の営みの全てといってもいいです。
 
では実生活で何の役に立つの?という話ですが、哲学程、実生活で訳に立つ学問はありません。というのも、先ほど言った様に、哲学とは妥当な原因を認識する能力を必要としますから、哲学で身に着けた認識力はそのまま、実生活で生じる困難や障害を生じさせている妥当な原因の認識におおいに役立ちます。もう一つは、哲学とはあらゆる事に普遍的な事を認識する訳ですから、自分が認識した真理は、即、あらゆる事=つまり人生においても普遍的な事になるはずです。ですから、哲学が実生活に役に立つのは当たり前なのです。というか役に立たない訳がないのです。もし役に立たないのであれば、それは普遍的な事ではない=真理ではないというそれだけの事です。
 
前置きが長くなりました。
哲学とは基本はダイアローグ(対話)ですから、まずは由美さんと先生の日常的な?(笑)対話を通して、哲学=考える事の魅力を感じて貰えればと思います。
 
―とある学校の放課後にて
 
由美「先生、ちょっといいですか」
先生「はい、なんでしょう。」
由美「実は、相談があって、ここではちょっと話しづらい事なんですけど・・・」
先生「分かりました。ちょっと場所を変えましょうか」
先生「で、相談の内容は?」
由美「はい、えーと、、、その最近、友達の亜希と仲が悪くなってしまって。ここ最近は、一言も口をきいていません。私、亜希の事が憎くて仕方ないんです。、、自分でも正直、なんでこんなにイラついているのか分かんないくらいで、、もうほとんど発狂しそうなんです。もう先生くらいにしか相談できそうな人がいないんです。」
先生「えーと、由美さんは亜希さんと確か中学1年の頃からずっと友達だってよね、どうしてそんなふうになってしまったの?」
由美「それは、由美が私の好きな人を奪ったからです。由美は私の好きな人を知っていました。私は由美に恋愛の相談を何度もしていましたから当然です。でも由美は私の好きな人と付き合っていました。しかも私に黙っていたんです!信じられますか」
先生「なるほど。それであなたは、亜希さんを恨んでいる」
由美「そうです。」
先生「で、私に相談してきたと。」
由美「はい。」
先生「あなたは、私に初めに、なぜ自分がこんなに怒っているのかも分からないくらいだ、狂ってしまいそうだと言っていましたね。それを先生と一緒に考えていき、自分が怒っている事の妥当な原因を認識していきましょう。そうすれば、きっと怒りも憎しみの感情も随分と減らしていく事が出来るでしょうから」
由美「本当ですか先生、よろしくおねがいします」
先生「まずは、あなたは、亜希さんが、あなたの好きな人を奪ったと認識しています。果たしてこれは妥当な認識なのでしょうか?」
由美「当然です。亜希は私の好きな人を知っていましたから。」
先生「でも、あなたの好きな人とあなたは付き合ってはいなかった」
由美「それは、そうですけど、、」
先生「そもそも、他人と付き合うという事は奪ったり、奪われたりする事という認識は妥当なのでしょうか?他人は奪ったり、奪われたりするような単純な「モノ」ではないですよね。あるいは仮にモノだと考えていても、亜希さんがあなたの好きなものを知っていて入手した=あなたのモノを奪った、となるのでしょうか?」
由美「なぜですか?」
先生「こんなお話しがあります。むかし、あるところに一匹のキツネがいました。キツネはブドウが大好きで、ブドウの木の下でブドウを取ろうと必死にジャンプしていましたが、ブドウが高くてなかなか取れません。そこにもう一匹の背の高いキツネがやってきて、ひょいとジャンプしたかと思うと、キツネが取ろうと苦労していたブドウをいとも簡単に取ってしまいました。その調子で、木になっているブドウは背の高いキツネが全部取って食べてしましました。キツネはこう思いました。ボクはブドウが取れなかったからブドウを食べれなかったんじゃない。あの背の高いキツネがボクのブドウを奪ったから食べれなかったんだ!・・・そして、このキツネは背の高いキツネの復讐心にかられ、身も心もボロボロになって死んでしまったとさ。おしまい。」
由美「先生は私が、このキツネだって言いたいんですか」
先生「その通りだと思わないかい?だってキツネはブドウが食べれなかった原因を非妥当に認識しているだろ?キツネがブドウを食べれなかったのは、単にそのキツネにブドウを取るだけの能力が足りなかっただけなのに、キツネはブドウが取れなかった原因を自分の能力不足と認めたくないから原因のすり替えをしている。つまり、ブドウが取れなかったのは、あの背の高いキツネがブドウを奪ったからだ!と。同じ様に由美さんは、自分の好きな人を手に入れれなかった原因が自分の能力不足と認めたくないから、友達が私の好きな人を奪ったから付き合えなかったのだと原因のすり替えを行っている。つまり非妥当な原因の認識をしている訳だ」
由美「どうしてそんな酷い事を先生は言うんですか!」
先生「酷いも何も真実を述べただけだよ。それに何も君をいじめようとしてこんな事を言っている訳ではない。非妥当な認識が、君の亜希さんへの憎しみを生み出している原因であり、君自身を悲しませている原因でもあると言っているんだ。つまり、君は、好きな人と付き合えなかった妥当な原因を認識する事により、亜希さんへの憎しみの感情も減らす事が出来るし、これからどうすれば、いいかも見えてくるといっているんだよ」
由美「どういう事ですか?」
先生「非妥当な認識を有したキツネは憎しみの感情を抱き、身も心もボロボロになって不幸な人生を終えたね。じゃあ、もしキツネが妥当な認識を有していたらどうなっていただろうか。」
由美「どうなったんですか。」
先生「じゃあ、妥当な認識verの方を見てみよう。
むかし、あるところに一匹のキツネがいました。キツネはブドウが大好きで、ブドウの木の下でブドウを取ろうと必死にジャンプしていましたが、ブドウが高くてなかなか取れません。そこにもう一匹の背の高いキツネがやってきて、ひょいとジャンプしたかと思うと、キツネが取ろうと苦労していたブドウをいとも簡単に取ってしまいました。その調子で、木になっているブドウは背の高いキツネが全部取って食べてしましました。
キツネは横取りされた気持ちになり、背の高いキツネを恨みそうになりましたが、すぐにブドウが取れなかった悲しみを、他人に当たり散らそうとしているだけだと気づきました。
そうだ、ボクにブドウを取るだけの能力が足りなくて、あのキツネにはブドウを取る能力があった。それだけ事なんだと。つまり、ボクがするべきことは背の高いキツネに復讐する事ではなくて、自分が足りない能力を補う事なんだと。その日から、キツネは自分の身長の低さを補う為に毎日毎日、ジャンプの練習をしました。鍛え抜かれた足はついに、ブドウに届き、おいしいブドウをお腹いっぱい食べれるようになりましたとさ。めでたしめでたし。」
由美「・・・確かに、こっちのキツネの方が私は好きです」
先生「そうだろう。妥当な原因の認識を有する事は幸福へと繋がっている。なぜなら原因に対する正しい対処が行えるからだ。キツネがブドウが食べれなかった原因を友達のキツネがブドウを奪ったからだ認識すると、友達に復讐する事になってしまう。だけど友達にいくら復讐した所でこのキツネがブドウを食べれる事にはならないだろう。なぜならそれは妥当な原因ではないから。同じ様に、由美さん、あなたが好きな人と付き合えなかったのは亜希さんが奪ったからだと認識してしまうとあなたは亜希さんを恨んで復讐心を抱き、あなたの目標は亜希さんに復讐する事になってしまう。しかし、亜希さんに復讐した所であなたが好きな人と付き合う事にはならない。でも、自分の能力が足りなかっただけと妥当に認識する事が出来れば、魅力的な人間になれるよう、あなたはより一層努力する様になるだろう。そうすれば、もし、あなたの好きな人と付き合う事が叶わなくとも、これからの素敵な出会いがあなたを待っている事でしょう」
由美「それは、本当にそうですね。あれ、亜希に対する怒りの感情もなんかだいぶ無くなちゃいました。」
先生「それはそうですよ。亜希さんへの怒りは、好きな人と付き合う事が出来なかった悲しみの原因を非妥当に認識した事によるもの。妥当に認識した今のあなたが、亜希さんへの怒りを向ける必要はもうないのですから」

―平等、自由、権利という言葉に含まれる毒気

―平等、自由、権利という言葉に含まれる毒気
 
人間は、平等であり自由である、我々はそれを有す権利がある・・・このような叫弾に含まれる「毒気」を感じるだろうか。
この毒気の正体は何かというと、つまり、「いいから黙って俺の好き勝手にさせろ」という本音を綺麗事を述べて主張しているだけという所にある。
そもそも人間であるばかりか、この自然においてありとあらゆるものは力の種類、方向性が異なり力の大小も異なる。何一つとして同じ力はなく、不平等なのである。であるから、全ては不平等であるという限りにおいて平等である。
そもそも、あらゆるものが平等であったのなら、この世界は全てが一様であり、何一つとして創造される事はなく、もちろんその様な世界に人間も存在しないのである。
自由を主張するという事は、自由に反するという事に気づいただろうか。俺に自由をよこせ!と主張するという事は、つまり自由とは、他人の是非により決定されるものであるという事になるが、どうして他人から与えられなければ成立しないものが自由であろうか。
つまり自由を主張するものは、そもそも自由とは何かを分かっていないのである。要はただ、「俺の好き勝手にさせろ邪魔をするな」という勝手なわがままであり、サルの雄たけびや悲鳴なようなものにすぎない。
自由とは、自己がどのような力を持っているかを知る事から始まる。魚が水の中から出ようとする事は自由になる事ではなく、不自由な状態である。魚は、「泳ぐ」という能力を有しているのであり、自己の能力を最大限発揮して「泳ぎ回っている」状態が自由なのである。
先ほど、あらゆるものは持っている力の種類もその大きさも異なるので、自然は不平等であるという事を述べた。もちろん人間、各個人においてもそうなのである。あらゆる人間は持っている力の種類もその大きさも違う、不平等である。それが自然なのである。
それであるにも関わらず、人間は他人よりも優位に立ちたいという欲望を持つ。それが「利己愛」と呼ばれるものである。利己愛を持つことにより、自分と他人を比べて優位だと感じれば「優越感」を抱いて喜び、自分が他人より劣っていると感じれば「劣等感」を感じて悲しむ。時に人は、優越感を得る為に、他者の活動を阻害したり他者を落としめようとする。これは、家族や学校のという小さな社会集団から、会社という大きな社会集団に至るまで、つまり人間の社会集団があれば、必ずどこでも生じる愚かな現象である。
利己愛をなぜ持ってしまうかというと、人間が等しく同じ力を持っているという思い込みに基づいている。しかし、これはさっきも言った様に間違いである。
 
自分と他人を比べて優れている、劣っていると一喜一憂する事は非常に愚かな事である。なぜならば、先ほども言った様に、自然において個物は異なる種類の力を持ち、異なる大きさの力を持つ為、あらゆる個物の能力は不平等である。しかし、この不平等さが自然におけて創造と秩序の本質である。
であるから、人間は他人と比べて自分の能力の優劣を図るのは愚かである。では何と比べるかというと、「以前の自分」とだけ比べればいいのである。
以前の自分よりも、少しでも自分の能力が高まっているかどうか、発揮出来ているかどうかで優劣を判断すればいいのである。
他人と自己の能力の優劣を比べて一喜一憂する事の愚かさは、カメよりも早く歩ける事に優越感を感じて喜んでいるウサギの愚かさに等しい。あるいは、北風のように皆を涼しくする事が出来ないと嘆いている太陽に等しい。
個物の持っている能力の力の種類と大きさはそれぞれ異なるのであるから、まずは自己がどのような能力を持つのか知る事。他人と比べるのではなく、自分自身を見つめる事。次に、自己の能力を以前の自分より、出来る限り高める事、発揮できるように努力する事。
先に述べた様に、自由とは自己の能力を最大限発揮している状態の事である為、他人と比べるのではなく、自己の能力を以前の自分と比べて、より高めていく事、発揮していく事が自由であり、幸福に至る最短の道である。
逆に、自己の能力を他人と比べて優越感や劣等感を感じて一喜一憂する事は、愚かであり不幸へと至る道である。
 
なぜなら幸福とは、他人と比べて(依存して)幸福になったり不幸になったりするものではなく、ただ自己に依存して成立する結果である。
即ち、幸福とは、自己の能力を最大限発揮している状態を示すものであり、ただ、自己に依存して成立するものなのであるから、他人と比べて幸福、不幸と言っている限り、一生、幸福が訪れる事はないのである。

生きている事に意味はあるのか―生徒と教師の対話

生きている事に意味はあるのか―生徒と教師の対話
 
生徒「先生、生きている事に意味はあるのでしょうか。私は生きている事がつまらないし、生きていてもいい事なんかないんだから、いっそ死んでしまった方がいいのではないかと思う事があります。そんな風に思う時は、自分の手首を切る事があります。そうしたら体の痛みによって、その分、心の痛みをごまかしてくれるので気分が楽になります。」
先生「君にはつらい事があるんだね。でもやまない雨は無いように、つらい事もずっと続くことは限らないさ。君は生きている事に意味はあるのか?と問うているけど、そもそも君が生きているとはどういう事なのか考えた事はあるのかな」
生徒「生きているとは死んでいないという事です。」
先生「そうだね、じゃあ死んでいるとはどういう事かな」
生徒「生きていないという事です。」
先生「つまり、生の定義が死を含み、死の定義が生を含んでいるという事だよね。つまり、生きているならば、必ず死ぬ。逆に言えば死ぬものは必ず生きているという事だよね。」
生徒「そうですね。」
先生「もし君が生きている事に意味が無いというのならば、死んでいる事に意味もないという事になる事に気が付いたかな。なぜなら、生の定義に死を含み、死の定義に生を含んでいるという事は、生きているという事は死なくして成立せず、死なくして生は成立しないという事だからね。」
生徒「もし私が生きている事に意味がないとしたなら、死んでいる事にも意味がないと言っているという事?」
先生「そういう事。つまり君が生きている事に意味がない、だから死のうという選択をするのは不条理だという事。なぜなら、生きている事に意味はないのだとしたら、死んでいる事にも意味はない。どっちも同じなんだから、わざわざ死ぬ必要なんてないじゃないか」
生徒「うーん・・・確かにそれはそうなるけど。先生は何で生きているんですか。生きている事に意味はあると思っているのですか。」
先生「そもそもね、自分は自分の意思で生きているんだ、という考えが間違っているんだよ。いいかい、僕たちは誰一人として、自分の意思で生まれこようと思って生まれてきた人はいないよね。気が付けば、自分が生きていた、存在していた。つまり自分の意思が在るのは生まれてきた後に生じた結果だよね。そもそも自分の意思があるのは自分が生きているからあるんだから。つまり、自分の意思は自分が生きている事の原因ではなくて結果なんだよ。生きているという事は自分の意思なんて軽く超えている奇跡なんだ。
生徒「それは、そうかもしれません。でもそれは私の両親がいたから私が生まれてきたんでしょう。つまり、私は両親の意思によって生まれてきたんではないですか」
先生「本当にそうかな。世界中の男女の人間から多くの人間が生まれているよね。でもそのほとんどは他者だ。自分ではないよね。ある人間が子供を産もうという意思を持ったからといって、生まれるのはほとんど他者だ。自分ではない。つまり、ある人間の男女の意思、つまり君の両親の意思によって人間が生まれるけど、それが他者ではなく、自分である事は両親の意思とは無関係なんだよ。いいかい、人間がどれだけ沢山、生まれてきた所で、私が生まれてくるとは限らないんだ。私が存在するという事が、どれだけ神秘的な事か分かったかな。それでもまだ君は私が存在する事に意味なんてないと思うのかな」
生徒「じゃあ、なんで私はいるんですか。それを教えて下さい」
先生「それは先生も分からないな。いいかい、意味が無いと言っているのではなく、意味が分からないと言っているんだよ」
生徒「どう違うんですか」
先生「そもそも意味というのはあるものとあるものが関係性をもつ事により生じる事だよね。つまり意味を問うという事は関係性を問うているんだ。ある結果に対してそれを生じた原因を問うていると言ってもいい。つまり生きる事の意味を問うという事は、生きている事の原因を問うているんだ。あらゆる物事の結果はある原因に依存して成立するものなんだから、私が存在しているという結果もある原因に依存している訳だよね」
生徒「その原因は?さっき、先生は私が生きているという事は私の意思も両親の意思も人間が生まれてくる事とも関係が無いといいました。」
先生「そう、正確には、理解出来ないほどの無限の原因により君という存在は成立しているんだ。だから、君の両親や人類が存在する事も無限の原因の一部分にすぎない。無限の原因を我々は認識する事は出来ないから、認識出来ている無限の原因の内のごく一部である両親や人類の存在を私が生まれてきた原因の全てだと勘違いしてしまうんだけど、これは大きな間違いであって本当は背後に無限の原因が潜んでいるんだ。だから私が存在しているという事は意味が無いのではなく、意味がありすぎて分からないんだ」
生徒「私が生きているという事は無限の原因、無限の意味によって成立している・・」
先生「そう。君が生きているという事はつまり無限である宇宙に原因があるんだ。君という存在は宇宙の無限の原因により生じた奇跡。その事さえ忘れなければ、つらい事だってきっと乗り越えられるさ。君という存在はなんたって宇宙の無限大の原因により支えられてりんだから」
生徒「そうですね。何か、少し気が楽になりました。先生、相談に乗って下さりありがとうございました。」
 

意識とは何か―独我論者と結果論者の対話

意識とは何か―独我論者と結果論者の対話
 
結果論者「今日は意識とは何か?について話し合おうとおもうが、単刀直入に聞きます。意識とは何ですか」
独我論者「意識、それは世界を成立させているものです。そして意識とは<私>の事です。私とは、人間でも、○○という名前でも、○○という所属でも、属性でも性別でもない。
意識が在る=私なのです。たとえ、蝶であろうと、植物であろうと石ころであろうと・・・」
結果論者「つまり、意識が無い=世界が存在しないという事ですか。」
独我論者「そうです。意識が無い世界というのは存在しません。」
結果論者「その意識とは他人の意識の事ですか、それとも私の意識の事を言っているのですか」
独我論者「私の意識の事です。あえて言いますが、他人の意識が在るという事は私の意識が在って初めて分かる事ですよね。つまり私の意識が無ければ他人の意識も無い。他人の意識が無く、私の意識だけがある世界は想定可能です。しかし私の意識がなく、他人の意識だけがある世界は想定不可能です。つまり、私の意識があるから世界は存在するのです。」
結果論者「という事はつまり、あなたは寝ているときに意識が無い事を認めますよね?あるいは、私がここであなたの後頭部を殴りつけ、あなたの意識を一時的に無くしたとします。この場合、あなたの意識が戻るまで、世界は存在しないと言っているのですか?」
独我論者「そうですね。なぜなら、世界はまるごと、私の意識の中にあるからです。私の意識が無くなるという事は世界がまるごと無くなるのは当然です」
結果論者「それは存在が無になるという事ですか」
独我論者「そうですね」
結果論者「ちょっと待って下さい。それは不条理ですよ。無いというならば、だれがそれを認識しているのですか。無いは在るに依存して成立するものでしょう。あなたの意識が無いという事を認識してるのはあなたの意識でないなら、他人の意識ではないのですか。つまりあたなの意識が無いと言えるのであれば、世界が存在しないのではなく、他人の意識が在る事を示す、つまり世界が存在している事を意味しているのではないですか?」
独我論者「いや、私の意識が在る事や無い事に他人の意識は関係ないよ。さっきも言った様に他人の意識がなくても私の意識は成立するだろう?というか、他人の意識をが在るという事を成立させているのは私に意識なんだから、他人の意識は私の意識に依存して成立する」
結果論者「でもあなたの意識が無い時、それを認識する者が必要だ。つまりあなたの意識が無い時に必然的に他人の意識は存在している」
独我論者「うーん・・」
結果論者「私が疑問に感じているのは、あなたがいう様に、私の意識が存在するから世界は存在しているだという考えについてなのです。つまり私の意識に世界創造の神のごとき力を与えてもいいのかという事です。私は、むしろ逆に、世界が存在しているから意識は生じた。つまり私の意識が在る事は世界が存在している事の結果であり、世界が存在しているから私の意識は存在していると思うのです。」
独我論者「つまり私の意識が存在せずとも世界は存在すると?」
結果論者「だって寝ている時は私の意識はない。その間、世界が無いと考えるより世界があると考えた方が常識的です。」
独我論者「まってくれ、私の意識が無い時、意識が無いと言えるのはなぜなのか?私の意識が無い時にいったい誰が、意識が無いといっているのか?」
結果論者「だから、それが他者ですよ。他者は、意識が回復した私に教えてくれるわけですよ。私の意識が無かったという事を、私の意識がない時に生じた世界の出来事を伝える事によって、私の意識が無い事を証明してくれるのです。」
独我論者「もし、私の意識が回復しなかったらどうなる。私はどうやって私の意識が無い事を知る事が出来る?」
結果論者「回復しなかったら、永遠に自分の意識が無い事を知る事はありませんね。意識が無いのですから知りようがありません」
独我論者「。。。。んーとつまり、いや、しかし、私の意識が存在するという事は、他人の意識が存在する事と同等とはどうしても思えないのだ。分かるかね、この感じが。私が存在する事は、人類を何万、何億と増やしていった所で、必然的に生じるものではないのだ。しかし、他者の意識は人類が一人増える事により必然的に一つ生じる。しかし、私の意識が生じる事は、人類をいくら増やしていったところで必ず生じるというものではない。つまり人類が存在するからといって私の意識が存在するとは限らない。つまり人類が存在する事と私の意識が存在する事に関係性はないのだ。むしろ私の意識は、何かこう急に、突然に、無根拠に、無条件に、あるいは偶然に、生じるものであって、決して他人の意識の様に、人類が一人増える事により必ず一つ増えるような、必然的なものではなく、奇跡としか言いようがない、神秘そのものなんだよ。そのような私の意識に世界を成立させる力を与える事は、それほど間違っている事なのか・・・」
結果論者「私の意識が存在する事は神秘そのものであるという事は同意見です。しかし、それは他人の意識にも言える事なのですよ。実は。私の意識が存在する事は奇跡。しかし、それは他者も意識も同様なのです。つまり、私の意識に世界を成立させる力を与えてしまったら、それは同様に他者の意識にも世界を成立させる力を与える事になってしまいます。それだと意識の数だけ世界が複数存在する事になってしまいます。しかしそれは不条理です。なぜなら世界(宇宙)は無限だからです。なぜ宇宙が無限かというと、もし宇宙に果てがあると仮定すると、そこに何らかの境界、区別を引けたという事です。つまりこちら側と向こう側を認識したという事です。向こう側を認識しているという事は向こう側が在るという事に他ならないので、宇宙に果てがあったら果てではないのです。つまり宇宙は無限だという事です。無限だという事は外部が存在しないという事です。つまり、一つという事です。なので、意識の数だけ宇宙(世界)が複数存在するという仮定は宇宙が一つである事と矛盾します。つまり、宇宙は無限なので外部は考えられませんので、必然的に宇宙は一つだけという事です。ですから宇宙が複数存在するという事は不条理です。なので意識の数だけ、宇宙(世界)が存在するという事は宇宙が一つである事と矛盾するので在りえません。なので意識が世界を成立させている力を有しているというのは間違っています。意識は力ではなく、結果なのです。認識力により世界を認識した事の結果が意識であり、認識出来た結果しか我々は意識できません。つまり私の意識が存在するから世界が存在するのではなく、世界が存在しているから私の意識が存在しているのです。意識が存在する原因は宇宙(世界)にあります。宇宙は無限なので、無限の関係性、つまり理解出来ないほどの無限の関係性(原因)によって私の意識は成立しているのであり、我々は無限の関係性、無限の原因を理解する事は出来ません。分からないから、意識が突然に、無条件に、無根拠に、偶然に生じたと勘違いしてしまうのですが、しかし、私の意識が存在している事は背後に無限の原因が潜んでいるのです。つまり宇宙の必然の元、私の意識は生じたのであり、決して偶然に無根拠に生じたのではなく、それはただ、我々に理解出来ないというだけです。」
独我論者「なるほど、少し、独我論から脱せる道を見つけたような気がしたよ」

―精神と肉体は何を成しうるか

―精神と肉体は何を成しうるか
 
精神は自身を認識する。
いつから、私は私なの?
どうして他でもない、この私なの?
私はどうして私なのか・・・私には分からない。
 
私は私の事をよく知らないけれど
私には何が出来るのかという事は知っている。
私がどのような力を有しているのかという事は知っている。
 
今から、精神(魂)が有す能力、即ち、魂の本質を述べます。
精神(魂)は3つの事を成しえます。
 
1つは表象する力。表象力。一般的に感情、あるいは感性と呼ばれるものです。
自身(精神)の状態を表象します。
自身と、最も身近な存在である身体の状態を表象します。
自身(精神)と身体の有す能力が維持、向上している時には喜びを表象し
逆に自身(精神)と身体が有す能力が阻害、抑制されている時には悲しみを表象する。
自身(精神)と身体が有す能力の内、どの能力を発揮する事を今、一番欲しているのかを表象します。これが意欲です。(意思と欲望は同じものです)
自身の能力がどの様な状態にあるのかという情報は多ければ多いほど自己の能力の維持、向上に役立ちます。
愛とは、自己の能力を向上させるものの観念を伴った喜びの表象(感情)です。
逆に憎しみとは自己の能力を阻害させるものの観念を伴った悲しみの表象(感情)です。
 
2つ目は認識する力。認識力。あるいは理解力。原理、本質、真理(ロゴス)を理解する力です。一般的に理性と呼ばれるものです。
自身(精神)と身体の表象を認識します。
複雑なものから単純なものを見つけます。複雑なもの事から単純なもの事である原理、本質、真理をつかみます。
 
3つ目は創造する力。創造力、あるいは想像力。一般的に知性と呼ばれるものです。
認識力により手に入れた単純な原理を組み合わせ(応用して)複雑なもの事を作ります。
単純なものを組み合わせ複雑なものを作ります。
単に組み合わせるだけではありません。原理と本質を押さえているものは秩序と調和がとれた組み合わせをしています。表象力は、創造力の能力の状態も表象します。美しい、あるいは醜いという表象によって。美しいものを見ればそれだけ、自身の創造力も促進されるので美しさには喜びの表象を伴います。
 遊びとは創造力の発揮に他なりません。単純なもの事を組みあわせる、実験する、それが遊びです。例えば、「走る」、「仲間と敵」の組み合わせで鬼ごっこ、これに「ボール蹴り」を加えるとサッカー、「ボール打ち」を加えると野球となります。いろいろな組み合わせを試す、実験するという事は創造力の発揮に他なりません。
 
以上3つが、精神が有する3つの能力、即ち、魂の本質です。
 
次は身体が有する3つの能力、即ち、身体の本質を述べます。
身体は3つの事を成しえます。
 
一つ目は、運動する力。運動能力。
動かない身体というのはもはや身体と呼べない。どんな体であろうと動く能力を有す。
睡眠欲は身体の運動能力を維持、向上させる為の欲です。動かない事は動く為の準備であり、睡る事がが身体の運動能力を向上させている報告例はいくらでもあります。(レム睡眠は運動のシュミレーションを行っている可能性があります)又、睡眠は肉体の修復を行い、運動能力の維持に努める。
 
2つ目は、他の個体を同化させる力。捕食能力。同化力。
どんな体であろうと他の個体を自身に同化させる力を有す。様々な捕食する能力、吸収する能力、同化させる力を有す。この能力を発揮する欲望が食欲。そして捕食能力とはそれ自体が自己の能力であり、かつ自己の能力を維持する為の手段でもある。
 
3つ目は、自己の一部を異化する能力。自己から他の個体を生み出す力。生殖能力。
自己の不要となった一部を破壊(異化)して排出する。あるいは、自己から他の個体を作り出す能力を有す。その能力を発揮させる欲望が性欲。他の個体といっても、自己の能力を受け継いでいます。自己の本質は能力なので、能力さえ他の個体に受け継げば、生物は生きる事を放棄する事もある。能力を受け継ぐ過程で、能力が向上(進化)する事がある。即ち、生職能力とは、それ自体が自己の能力であり、かつ能力を向上させる手段でもある。
 
以上、3つが身体が成しうる事であり、身体の本質、即ち身体が有す能力である。
 
あらゆる存在は自己の能力を維持、向上させようと意欲する。
なぜならば、自己が有す力こそ、自己の本質であり、神より与えられた力であり、無限の力である神の一部であるから。
身体は自己の能力の維持、向上を欲しこれに努め、精神(魂)は自己の能力の維持、向上を欲しこれに努める。
そしてより強い者がより弱いものを従える様に、より強い欲望がより弱い欲望を従える。
あらゆる存在は神より与えられた自己が有す能力を維持、向上させる為に存在しているのである。
自己の能力が十分に発揮出来ている時、存在する事を幸福と感じるのである。
自己の能力が十分に発揮出来ないと諦めた時、生きる事を放棄する。即ち自殺する。自殺とは、自己の能力を発揮できない不自由な状態から自由になろうとして生じるのである。あえて言うが、自己の能力が維持、向上されている限り、自己は自ら生きる事を放棄はしない。
 
自己の能力を最大限発揮させている状態、即ち至福となる為には、精神と身体が何を成しうるのか、即ち、精神(魂)と身体が有す能力は何かを知る事がまず何よりも重要な事だと感じたのでここに記す事にした。
 
<まとめ>
精神(魂)は神より与えられた自己の表象力、認識力、創造力を維持、向上(進化)させる為に存在し、自己の能力を発揮する事を欲し、これに努める。
肉体(身体)は、神より与えられた自己の運動能力、同化能力、異化能力を維持、向上させる為に存在し、自己の能力を発揮する事を欲し、これに努める。
神は無限の力であり、能力こそ、ものの本質に他ならない。
あらゆる存在は神の無限の力の一部が顕現したものに他ならない。神の本質は無限であり永遠の力である。あらゆる存在が自己の能力を維持、向上させる事を欲し、これに努めるのは、神の無限であり永遠である力の本質に由来する。

―自分の事を正当に評価出来るのは自分だけ、自分の事を教育出来るのも自分だけ

―自分の事を正当に評価出来るのは自分だけ、自分の事を教育出来るのも自分だけ
 
嘘、不正、偽り、見栄、騙し、威圧、優越、劣等、妬み、嫉妬、これらの行為、および感情がなぜ生じるのかというと、他人から好かれよう、評価を求めようとしているからに他ならない。
 なぜ他人から好かれよう、他人から評価を求めようとするのかというと、自分で自分の事を好きになれない、評価出来ない、だから、他人にその埋め合わせをしてもらおうと卑怯な手段を使っているからに他ならない。
 自分で自分の事を好きでいられる、評価出来ているならば、他人の評価というものが、正当以下であったり、正当以上である事が分かる。つまり、他人の評価というのは正当でない、不適当であり、空のお天気模様の様に、うつろいやすく、その時の他者の気分によって変わるものだという事が分かる。つまり、そんな不正当で不適当なものに一喜一憂するのが愚かであり、馬鹿馬鹿しいものなのだ。
 しかし、他者の評価が正当でないのは当たり前の事なので責める事は出来ない。なぜなら、他者は他者であって私ではないから。私の事の一部しか知りようがない、私の事を全て知る事は不可能であるからだ。
では自分の事を一番知っているのは誰か?『私』だ。親でも、親友でも恋人でもない。自分しかいない。つまり自分の事を一番知っているのは自分だけなのだから、自分の事を正当に評価できるのも自分しかいない。ならば、自分の事を正当に評価できる私が自分の事を好きでいられる、評価出来ている事が何よりも重要な事であるのは明白。
つまり、他者に好かれようとする、評価されようとするよりもまず、何より、自分で自分の事を好きになれる、評価出来るように努力する事、自らを教育する事が何よりも先。あえて言うが教育とは自らを教育する事に他ならない。
 自分の事を好きでいられる、評価出来る様になれば、他者の不当な評価を求める必要がなくなるので、今まで他者の評価を求める為に費やしていた時間と労力を全て0にする事が出来る。さらに、嘘、不正、偽り、見栄、騙し、威圧、優越、劣等、妬み、嫉妬なども行う必要もなくなり、より自由となれる。他者の評価を得る為に、正しくないと思える事をしなくてもよくなり、自分が正しいと思える事だけを行い、述べる事が出来るので、さらに自分が好きになる、評価出来るようになる。自分の存在に満足できるようになる。つまり幸福になる。
 世界中のすべての人間から嫌われても、自分が自分の事を好きでいられたらそれでいい。
 世界中のすべての人間から評価されなくても、自分で自分の事を評価できていたらそれでいい。だって、自分の事を一番よく知っているのは自分だけなのだから、自分の事を正当に評価できるのも自分だけなんだから。
 仮に世界中のすべての人間から好かれていようとも、自分の事が好きになれない者は不幸である。逆に言えば、世界中の全ての人間から嫌われていても、自分の事が好きでいられる者は幸福である。

―哲学問答

―哲学問答
 
「人間とは何か?」
「考えるもの」
 
「神とは何か」
「無限の力」
 
「存在とは何か」
「考えられるもの」
 
「無とは何か」
「考えられないもの」
 
「心はどこにあるのか」
「宇宙の中に」
 
「何が最も価値あるものか」
「真理。
あえて言うが、精神にとって真理以外に価値のある何事も認める事が出来ないのである。」
 
「真理とは何か」
「正しく、善く、美しいもの」
 
「魂とは何か」
「真・善・美なるもの」
 
「私とは何か」
「意識するもの」
 
「理性とは何か」
「真理の認識に努める力」
 
「真理の認識に努める力とは?」
「複雑なものから、単純なものをつくる力」
 
「知性とは何か」
「単純なものを組みあわせ複雑なものをつくる力」
 
「精神とは何か」
「理性と知性よりなるもの」
 
「宇宙はどのように作られているのか」
「宇宙の精神によって。
即ち、宇宙の知性の力により単純なものを組み合わせ複雑なものが創られ
理性の力により、複雑なものから単純なものが創られる。
よって万物は絶えず流転する。
人間が物事を理解し応用する事に努め、破壊し創造する様に」
 
「対立物とは何か」
「在るものとそれに依存して成立するもの」
 
「なぜ対立物は存在するのか」
「あるものとそれに対立的なものとの組み合わせが
あるものだけの組み合わせより
最も美しい調和を生む為。
人間が創造という行為もすべて自然(神)の創造の模倣であり
最も美しき音色は高音と低音の組み合わせより生じ
高音だけでも低音だけでも生じない。
美味とよばれるものはある味付けとその対立的な味との組み合わせ
により生じ、甘味だけでも苦味だけでも生じない。
最も美しき秩序は
引き合うものと反発するものとの組み合わせにより生じ
引き合うものだけでも、反発するものだけでも生じない
もし世界に対立的なものがなければ、世界はこれ程、美しくもなく
調和もなく、ひどくつまらないものになっていただろう。」
 
 
「意味とは何か」
「有限の関係性より生じるもの」
 
「因果関係とは何か」
「無限の関係性から有限の関係性のみを用いた合理的な解釈」
 
「無意味とは何か」
「無限の関係性、あるいは一切の関係性をもたぬ事」
 
「宇宙に果てはあるか」
「果てがあったら、果てではない」
 
「何が神性なるものか」
「はじめがなく、おわりのないもの」
 
「時間とは何か」
「今の中にあるもの」
 
「何の為に存在しているのか」
「自己の能力を最大限発揮する為に」
 
「幸福とは何か」
「自己の能力を最大限発揮している状態」
 
「自由とは何か」
「運命により与えられた自己の能力を十分に発揮出来している状態」
 
「自己の能力とは何か」
「身体の能力と精神の能力」
 
「精神の能力とは何か」
「理性と知性の能力」
 
「どうすれば、精神の能力を向上させる事ができるか。」
「使い続ける事により。使わなければ低下する。身体の能力も同様。」
 
「最も難しい事は何か」
「汝自身を知る事」
 
「どうすれば分かるようになるか」
「分からないという事が分かるようになれば」
 
「どうすればより高い真理に辿りつけるか」
「より強く、真理を欲求し、かつこれに努める事」
 
「動物や植物も心(感情)はあるか」
「ある。」
 
「動物や植物になくて人間だけにあるものは何か」
「真理(ロゴス)を理解する力」
 
「考えるとは何か」
「考えている事を意識しつつ考える事」
 
「より深く考えるにはどうすればいいか」
「考えている事の前提となっている考えを考えてみる事」

「意思とは何か」
「欲望を伴った衝動」
 
「欲望とは何か」
「意思を伴った衝動」
 
「何が愛すべきものか」
「自己の能力を向上させるもの」
 
「何が憎むべきものか」
「自己の能力を阻害させるもの」
 
「なぜ人は愛し、憎むのか」
「身体は身体の能力の維持、向上を欲求し、かつこれに努め
精神は精神の能力の維持、向上を欲求し、かつこれに努める。
なぜなら、能力こそ身体と精神の現実的本質に他ならぬからであり、
自己の能力を発揮する為に、個物は存在しているからである。
故に、自己の能力を促進、向上させるものがあれば直ちに、入手、接近する事に努め、かつこれを愛し
自己の能力を阻害、抑制するものがあれば直ちに、破壊、逃避する事に努め、これを憎む。」
 
「他者から憎まれず、愛されるようにするにはどうすればいいか」
「他者の能力を阻害せず
他者の能力を向上させる事に努める事」
 
「なぜ人は自殺するのか」
「自己の能力を十分に発揮できないと諦めた時、人は生きる事を放棄する」
 
「人間にとって最も有益な力となるものは何か」
「人間」
 
「それはなぜか」
「人間にとって共通の利益となるものを手に入れる際、一人で行うより
二人で協力すれば、単純計算で労力と時間は1/2となる。
大勢で協力するほど、それだけ短時間でかつ価値あるものを見込める。
人間にとって協力して何かを成すという事以外に価値ある何事も見込む事は出来ない。
一方、自己だけに利益があり、他者に害悪となる事を手に入れる際
他者の協力は得られないばかりか、他者から活動を阻害される。
故に価値ある何事も見込む事は出来ない。
結局、自己にとって最も有益な事は他者にとっても有益な事となるのは必然的である。
故に人間にとって人間ほど有益な存在はいない」
 
「人間にとって最も有害な力となるものは何か」
「人間」
 
「この世で最もおそろしいものはなにか」
「人の憎しみとうらみ」
 
「最も気を付けるべき事は何か」
「人に憎しみを与えない事と人に憎しみを抱かない事」
 
「人に憎しみを与えない様にするにはどうすればいいか」
「自らがされたくない事を相手にも行わない事」
 
「人に憎しみを抱かない様にするにはどうすればいいか」
「憎しみの原因の原因を考える事。憎しみの原因を分散させる事が、人へ対する
憎しみを抑える事となる」
 
「それでも、憎しみを抑えられなければ?」
「憎しみの感情は自己の能力が阻害、抑制される事により生じる。
故に、出来る限り、自己の能力を促進、向上させる事に努める事。」
 
「人から憎しみを受けた場合どうすればいいか」
「避けられないのであれば、より大きな愛で接する事。憎しみと憎しみが向かう先は破滅である」
 
「最も愚かな生き方とは何か」
「家畜の様に生きる事。
即ち生きているとはどういう事か
存在しているのはいかなる事か
という最も重要な事を考えず
ただその場、その時の感情と欲望に支配され
下らない事ばかり考えて
生きて、死んでいく事。」

「最も善い生き方とは何か」
「自己の能力と他者の能力を向上させる事に出来る限り努め
共通の利益となる事の追求に他者と協力して努め
自己だけの利益となり、他者の害となるような事は控える様にする事」
 
「死とは何か」
「存在の変化」
 
「生とは何か」
「存在の変化」
 
「死後に待ち受けている事は何か」
「驚くべき事であり人間が想像も出来ないような事」