―存在とは何か

真理への飽くなき追究

―自分の事を正当に評価出来るのは自分だけ、自分の事を教育出来るのも自分だけ

―自分の事を正当に評価出来るのは自分だけ、自分の事を教育出来るのも自分だけ
 
嘘、不正、偽り、見栄、騙し、威圧、優越、劣等、妬み、嫉妬、これらの行為、および感情がなぜ生じるのかというと、他人から好かれよう、評価を求めようとしているからに他ならない。
 なぜ他人から好かれよう、他人から評価を求めようとするのかというと、自分で自分の事を好きになれない、評価出来ない、だから、他人にその埋め合わせをしてもらおうと卑怯な手段を使っているからに他ならない。
 自分で自分の事を好きでいられる、評価出来ているならば、他人の評価というものが、正当以下であったり、正当以上である事が分かる。つまり、他人の評価というのは正当でない、不適当であり、空のお天気模様の様に、うつろいやすく、その時の他者の気分によって変わるものだという事が分かる。つまり、そんな不正当で不適当なものに一喜一憂するのが愚かであり、馬鹿馬鹿しいものなのだ。
 しかし、他者の評価が正当でないのは当たり前の事なので責める事は出来ない。なぜなら、他者は他者であって私ではないから。私の事の一部しか知りようがない、私の事を全て知る事は不可能であるからだ。
では自分の事を一番知っているのは誰か?『私』だ。親でも、親友でも恋人でもない。自分しかいない。つまり自分の事を一番知っているのは自分だけなのだから、自分の事を正当に評価できるのも自分しかいない。ならば、自分の事を正当に評価できる私が自分の事を好きでいられる、評価出来ている事が何よりも重要な事であるのは明白。
つまり、他者に好かれようとする、評価されようとするよりもまず、何より、自分で自分の事を好きになれる、評価出来るように努力する事、自らを教育する事が何よりも先。あえて言うが教育とは自らを教育する事に他ならない。
 自分の事を好きでいられる、評価出来る様になれば、他者の不当な評価を求める必要がなくなるので、今まで他者の評価を求める為に費やしていた時間と労力を全て0にする事が出来る。さらに、嘘、不正、偽り、見栄、騙し、威圧、優越、劣等、妬み、嫉妬なども行う必要もなくなり、より自由となれる。他者の評価を得る為に、正しくないと思える事をしなくてもよくなり、自分が正しいと思える事だけを行い、述べる事が出来るので、さらに自分が好きになる、評価出来るようになる。自分の存在に満足できるようになる。つまり幸福になる。
 世界中のすべての人間から嫌われても、自分が自分の事を好きでいられたらそれでいい。
 世界中のすべての人間から評価されなくても、自分で自分の事を評価できていたらそれでいい。だって、自分の事を一番よく知っているのは自分だけなのだから、自分の事を正当に評価できるのも自分だけなんだから。
 仮に世界中のすべての人間から好かれていようとも、自分の事が好きになれない者は不幸である。逆に言えば、世界中の全ての人間から嫌われていても、自分の事が好きでいられる者は幸福である。