―存在とは何か

真理への飽くなき追究

―自由な意思はない。運命に逆らう事が自由ではない。

―自由な意思はない。運命に逆らう事が自由ではない。
 
現代の多くの人は、意思というとすぐに「自由」と直結させて考えてしまい、自由な意思が存在すると思い込んでいる。
逆に、意思に対立するものは「欲望」であると思い込んでいるが、実は、自由な意思は存在しないという事、そして欲望というのは、意思に最も親しきものであり、同一のものともいえるという事を述べようと思う。
 
「責任」という言葉がなぜこれほど、現代において多用されているかというと、意思が自由なものであると思い込んでいるからに他ならない。意思は自由だと思いこんでいるから、「あなたがそうしたのはあなたがそれを選択したからでしょ?だからあなたの責任でしょ?」という事になる。
例えば、ある人間が暴力を振るった。周囲は当然の如く、けがを負わせた彼に責任を問う。なぜなら、暴力を振るった原因は彼の意思にあると考えるからだ。そして意思は自由と思い込んでいるので、彼の自由な意思が原因で暴力を振るった、だから彼に責任を問うのであるが、これは間違いである。意思というものが生じる背後には、無数ともいえる原因が潜んでいるからである。例えば、彼が朝、周囲の者から、陰口を言われてイライラしていただとか、天気が悪くて、暗い気分になっていただとか、朝食べたものが古くなっていてお腹の調子が悪かっただとか、もちろん暴力を振るった相手の言動がむかついた、あるいはそもそも、彼が存在していたという事等、無限の原因、つまり認識する事が出来ないほどの原因により成立しているのだが、そのような背後の見えない原因はバッサリと切り捨てられ、彼の意思だけが、暴力という結果を生み出した原因である、というあまりにも愚かな考えに基づいて「責任」という言葉を発しているのである。
では意思というものは何なのか、という事を考えるには、意思と対立するものと通常考えられている欲望について考えなければならない。
なぜなら、結論から述べると、欲望と同時に生じるのが意思であり、意思の伴わない欲望というのは存在しないからである。
欲望を定義すると、『欲望とは自分が持っている本質的な力を維持、あるいは向上させる為に役立つ事をしたいという意思を伴った衝動』の事だといえる。
逆に意思を定義するならば、『意思とは自分が持っている本質的な力を維持、あるいは向上させる為に役立つ事をしたいという欲望を伴った衝動』だと言える。
「自分が持っている本質的な力」とは何かというと、あるものが有する、『本性』『性質』の事だと言える。例えば、人間が有している本質的な力に生命力がある。つまり、肉体を維持、あるいは向上させようとする力が備わっている。ケガをすれば、修復させ、病気になれば熱を出して病原菌を排除する、人体の組織の材料が減れば、作成する。生命力という人間の本質的な力、(本性)を維持、あるいは向上させる為に、あの木のリンゴをとろう、リンゴを食べよう、食べる為にお金を稼ごう、働こう、あるいは貯蔵しておこう等、あらゆる意思と同時に欲望が生じているのである。
意思と同時に欲望が生じている以上、意思と欲望は対立するものではなく、むじろ人間の本質的な力を維持、あるいは向上させる為に生じている衝動であり、同一のものである。
なので、よく言われる「欲望に逆らえない弱い意思」という表現は不適切であり、それはただ単に、ある欲望が別の欲望よりも相対的に大きいだけであり、意思が弱いのではなく、ある欲望の方が相対的に小さいだけなのだ。
欲望に逆らえるのは、より大きな欲望だけである。あるいは意思に逆らえるのはより大きな意思だけである。
人間が有する本質的な力(本性)は生命力、認識力のように共通の力もあれば、共通しない力もあり、人の本性は人それぞれ異なる。
例えば、生まれつき絵を描く事が得意な子供に、運動をさせるのはその子供の本質的な力(本性)を維持、あるいは向上させる事にはならない。逆に、運動が得意な子供に、絵を描かせるのはその子供の本質的な力(本性)を伸ばすことにはならない。
そして自由とは何かというと自らが有す本質的な力(本性)を十分に発揮している時、自由であると感じ、逆に、自らの有す本質的な力(本性)を十分に発揮できない時、不自由と感じるのである。
例えば犬は生まれつき4足歩行であるが、4足歩行から脱して2足歩行になる事が、自由になる事ではない。4足歩行という性質を十分に発揮してしる時、犬は自由であると感じるのである。逆に人間が2足歩行から脱して4足歩行になる事は自由になる事ではなく、2足歩行という性質が十分に発揮出来ている時、自由であると感じるのだ。
犬が4足歩行である事、人間が2足歩行である事は運命である。通常、自由に対立するものとして『運命』が挙げられるが、自由と運命は対立などしない。自らが生まれつき(運命的に)有している力を十分に発揮出来ている時に自由と感じるのであり、逆に自らが運命的に有している力が十分に発揮出来ていないとき不自由と感じるのである。
生まれつき読書をしたり考え込む事が好きなのに、運動する事を強制させられると不自由と感じ、逆に、生まれつき運動する事が好きであれば、読書をする時ではなく、運動している時が一番自由だと感じるだろう。
そして、幸福とはより自由になっていく事である。つまり自らが有す本質的な力をより向上させる事がより自由であり幸福に至る道である。
なので、自由である事、幸福である事を自分以外のものと比べる事は愚かである。個物が有している本質的な力を十分に発揮させていく事が自由であり幸福に至る道なので、自由の在り方、幸福の在り方は人それぞれ異なるのである。
 もの事の認識を深め考える事が好きな人は、より深く考え、物事を認識していく事が自由であり幸福と感じ、運動を行う事が好きな人は、より素早く、しなやかに、あるいは力強く動けるようになる事が自由であり幸福の道なのである。
魚は泳ぐという自らの本質的な力(本性)を十分に発揮している時に自由であり幸福だと感じるのであり、水の中で生きていくという運命から逃れて、水の外で生きていくのは不自由であり不幸なのである。
 結論をのべると、自由、幸福に至る道は、人それぞれ異なるので、他者と比べても無駄である。なぜなら、それぞれが有する本質的な力(本性)を伸ばしていく事がより自由で幸福な道であるから。
 なので、自由、幸福になるにはまず、自分自身を見つめ直し、自分が持っている本質的な力(本性)を知る事。そしてそれを磨き上げる事。それが自由と幸福に至る最短の道であり、自分だけの道でもある。

―無意味さと笑いについて

―無意味さと笑いについて
 
笑いが如何に生じるのかという事を、宇宙の無限の意味(意味がありすぎる事による無意味さ)から、単なる事実、「在るものは在る」という同一律トートロジー)からなる非意味によって、有限の意味へと分断するという我々の普段の営みを用いて論考する。
なぜなら、結論から述べると、笑いとは、「無限」「矛盾」「無意味」に対して「これを考える事は必要のない事だ」という一つの有限な結論を導き出す事である。
 笑いとはこのゲーム(世界)に内在する無意味さをプレイヤーに考えさせない様にし、ゲーム(世界)に熱中させる為の手段の一つである。
 
  1. 意味とは何か。意味の定義について。
一言でいえば意味とは『関係性』の事である。
意味を定義するならば、『意味とは無限の関係性の中から有限の関係性を用いた合理的な解釈の事であり、合理的な解釈が共感される事により意味へと成長するもの』である。
普通、意味とは物事の『目的』の事であると解されるが、どのような目的を持つことであろうと、その前提として、私的な経験や知覚との関係性、あるいは時空間的な前後関係を持たなければなるまい。
関係性を持たなければ、意味は生じない。
例えば、「水」。これだけでは、何の意味も持たない。ただの記号であり「空」である。水に触れ、知覚し、経験という自らとの関係性に縁って意味が起こる、(縁起する)のである。
あるいは、文法の前後との関係性によっても意味は変化する。
火事なので「水」を下さい。
のどが渇いたので「水」を下さい。
同じ「水」でも状況によって意味が異なる。火事が起きて「水!」と言う者に、コップに入れた水を差しだす事や、あるいは喉が渇いて「水!」と言う者に、バケツに入れた水を差しだす事は、水という言葉が指示するものが何であるかは知っているが、意味を理解しているとは言えない。
ただ単に「水」と言うだけでは、未だ意味を持たず、未意味の状態である。
未意味とは、無限の意味が潜在している状態であり、無限の意味を理解する事は我々に不可能なので、意味が崩壊している無意味な状態である。
意味とは、言葉自体に存在するのではなく、その都度、その状況との関係性に縁って千差万別に変化し縁起するものなので、意味とは関係性の事であると言える。
 
2、無意味とは何か。意味がありすぎる事による無意味について。
宇宙の無意味さとは意味を持たない事による無意味さではない。
意味を持ちすぎる事により、意味が崩壊する無意味さである。
つまり、無限の意味を持つことによる、意味の様相の潰れである。
宇宙は無限である。(なぜなら無いものからはいかなるものも生じない。無いものは無いものだから無いものについて考えられない。考えられないものは考えられない。考えられないものについて何もいう事は出来ない。考えられないものは存在しない。無は存在しない。つまり、宇宙はただそれのみで存在する事が出来る。初めも終わりも無い。始まりも終わりも無いのだから、無限である。証明終わり。)
宇宙は無限であるので、無限の関係性を持つ事が出来る。
無限の関係性を持つという事は、矛盾律が成立しうるという事である。
あらゆる関係性を持つ事が出来るという事は、矛盾する関係性をも持つ事が可能である。
無限の意味を持つ事がいかなる状態か理解できない。同時かつ同一視点で、AかつBという矛盾した状態は理解不可能。(別の時点、別の視点で異なる事は矛盾ではない。表から見たら黒で裏から見たら白に見える事は矛盾ではない。ある時点では波のように振る舞い、別の時点では粒子のように振る舞う事は矛盾ではない。同時かつ同一の視点でAかつBで在る状態が矛盾である。)
無限の意味を有するという事は我々が理解できる範囲の外側を有しているという事。
無限の意味と矛盾律は、我々にとって理解不可能であり無意味となる。
意味がありすぎる事による無意味。無限の関係性を持つ事による無関係。
 
―非意味とは何か?
非意味とは、意味が無いという事ではなく、意味が在るとか無いとかでは、無いという事。意味がないのではなく、意味ではない事。他と一切の関係性を持たず成立するもの。必然性とは、AだからBになるという関係性に依存するものであるが、非意味とは一切の関係性を持たずAだからAであるというだけ。つまり、非意味とは非―必然性といえる。つまり単なる偶然、事実。ただ、そうであるもの。在るものは在る。いかなる説明が入る余地もないほどに絶対的なもの。AだからAであるという事。同一律トートロジー
原因と結果がそれ自身に内在するもの。他の関係性、意味と一切無関係にただそれ自身に依って成立するもの。
つまり<現実性>、<私>、が非意味の存在である。
そもそも、意味が成立するこの意味世界、意味空間を成立させるものは、この<現実性>、あるいはこの<現実性>の事を真の<私>と言ってもいいのだが、『現に・・・』という事はいかなる意味や理由をも撥ねつける力を持つ。
どのような論理的、矛盾であろうと、現実性には逆らう事が出来ない。
存在している事に意味があろうとなかろうと、関係なく、<現実性>が在れば、即、存在は成立する。<現実性>とは意味や関係性自体と関係がない。
というより、そのような意味や関係性が存在する意味世界、意味空間を、そもそも成立させているのが<現実性>なのであり、意味世界の外側に位置するものである。つまり<現実性>は意味や関係性が成立する以前、だから非意味、非関係。
<私>があらゆる意味や関係性から無関係に無条件に成立している事からも、<私>の成立は意味があるとか無いとかではなく、意味ではない、非意味なのである。
 
そして、無限の意味を持つ、無意味な世界から、私的経験、知覚体験によって、有限の意味を我々は取り出す。人間が思考する事、あるいは行為する事とは、無限の意味から、有限の意味を取り出す、無限の意味→有限の意味への移行であり、私的経験、知覚経験とは無限の関係性から有限の関係性へと断ち切る事だと言える。
私的経験、知覚経験とは、単なる事実、偶然により成立する非意味である<現実性>なしには在りえず、なにが知覚されていようが知覚されているのであれば、現実である。
それが、冒頭で述べた、宇宙の無限の意味(意味がありすぎる事による無意味さ)から、非意味によって、有限の意味へと分断するという事である。
無限の意味×非意味=有意味
 
そしてもちろん、私的体験である「笑い」も、無限の意味(意味がありすぎる事による無意味さ)から、有限の意味に分断する。
無意味さ×笑い→有意味
 
―無意味さと笑いについて
無意味とは何かで述べたように、無限の意味は矛盾律を有す事が出来るので、意味が崩壊する。あるいは無限の意味とは、無限の関係性を持つ事であり、無限は理解不可能なので無意味となる。そして、未だ意味を持たない未意味は、潜在的に無限の関係性を有しているので、未だ意味を持たない未意味も無意味である。
考えるという事は無限の意味(意味がありすぎる事による無意味さ)から有限の意味を抽出する事、有限化する事であると述べたが、思考する事に限らず、私的経験、知覚体験は全て、自己と対象との間に有限の関係性を持つという事であり、宇宙の無限の意味を有限化するという事である。
そして私的経験、知覚経験はすべて<現実的>な事であり、<現実性>はあらゆる関係性から(たとえ無限の関係性であろうとも)無根拠に、無関係に、無条件に発生する。<現実性>はこの意味という関係性から成り立つ意味世界、意味空間をそもそも成立させているので、意味世界、意味空間の外側に立つ。つまり意味や関係性が成立する以前、意味の在る無しでは、無さ、つまり意味ではない非意味なものである。
 
そして「笑い」も当然、私的体験の内の一つであり、考えても無意味な事(無限、矛盾、無意味)から「これは考える必要性は無い」という一つの有限の意味を出す為の手段の一つである。
意味がありすぎる事による意味の崩壊=「無意味」としてこれまで以下の3つ述べたが、これら全てを、我々は笑いによって「考える必要性は無い」と断ち切っている。
1、無限について。つまり無限の意味、関係性を持つという事による意味の崩壊→「無意味」
2、未意味。未だ意味を持たないという事において無限の関係性が潜在している。潜在的に無限の関係性を持ってしまう事による関係性の様相の潰れ→「無意味」
3矛盾律。無限の関係性を持つ事により、成立してしまう矛盾律→「無意味」
 
笑いとは、無限、矛盾、無意味という理解不可能な事を理解しようとする事から断ち切り、『これは考える必要性はない事だ』と一つの有限な結論を出す事である。
無限の関係性(考える事の不可能さ)を前にして思考はフリーズする。無限の関係性を考えつくす事は不可能であり、行動不能となる。あるいは矛盾の状態を理解する事は不可能であり、思考は停止する。無意味に意味を見出そうとすると思考は停止する。無関係の中に関係を見出そうとすると事は不可能である。笑いとは、このような、無意味な事に意味を見出そうとする事により発生するフリーズ状態、無限や矛盾など理解不可能な事を理解しようとする事による思考の無限牢獄から脱出する為の手段の一つであり、無限の意味から有限の意味へ、あるいは未意味という潜在的に無限の意味から有限の意味へ、矛盾から排他律(A又はAではない)へ移行させる。もし我々に「笑い」が無ければ、無限という数を求めて永遠に計算し続けてしまう、コンピュータの様に、身動き一つとる事が出来ないようになってしまうだろう。あるいは、関係性(意味)を無限に考え続けしまい行動が出来なくなるロボットの様になってしまうだろう。笑いはそのような無限、理解不可能なものから、考える事を退かせる為の手段の一つである。
人間は、矛盾や無意味や無限を前にして『これは考える必要性が無い事だ』と判断すると、考えないように考えようとするのではなく(考えない様に考える事はそれ自体矛盾しており無意味な行いであるので)考えない様に体を動かす、それが笑いだ。笑いとは頭を空っぽにして、とにかく行動する事だ、この世界をプレイする事だ。(笑うと頭が真っ白になり思考できなくなる。笑いは思考を停止させる働きがある。)また笑い以外にも「信じる」という事も、ある所で無限の関係性から断ち切り、考えを停止させ、行動に移す為の手段であると誰もが同意する所であろう。
 
笑いが、「無限」「無意味」「矛盾」などの理解不可能な事を理解しようとする事から断ち切り、『これは意味が無い事だ』と一つの有限の意味を見出す例をいくつか述べる。
  1. 時空連続性の無い(現在の状況と一致しない)物事。(時空連続性と無関係、無意味)×「笑い」→「これは考える必要性が無い事だ」
  2. 行動と言動の不一致(矛盾による無意味さ)×「笑い」→「これは考える必要性が無い事だ」
  3. 本来(通常)の目的と異なる目的に向けられた物事。目的の同時背反性。(矛盾による無意味さ)×「笑い」→「これは考える必要性の無い事だ」
  4. 無意味という目的の為に行われる物事(意味が無い事に意味を求める無意味さ。無意味に意味を求める矛盾。無関係という関係性を求める矛盾)×「笑い」→「これは考える必要性の無い事だ」
  5. 無限に連鎖する物事(無限を考える事の無意味さ)×「笑い」→「これは考える必要性の無い事だ」
 
あらゆる亨楽に内在しているのは無意味さである。
笑いという亨楽自体に内在しているのは無意味さであり、そして無意味さが笑いを引き起こすものであもある。
そして笑いとは、このゲーム(世界)自体に内在している無意味さを考えさせないようにし、プレイヤーをゲームに熱中させる為の手段である。(※詳しくは「死とゲーム論」参照)

―死とゲーム論

―死とゲーム論
 
我々は日々生活している。では生活とは何か?
生活するとは、生きるという事。死から逃れようとする事。死をとりあえず、今は回避する事といえよう。
では、我々の目的は不死となる事、死なない様になる事か?いや、決してそうではない。
我々が求めているのは不死ではなく、生きる事に熱中する事だ、という事を今回は論じてみようと思う。
 
ある何者かによって構築されたシステムの事を「ゲーム」と名付ける。
テレビゲームは、人間によって構築されたシステムであるが、ゲームをするプレイヤーがゲームに望んでいる事は、ゲームバランス、つまり秩序あるシステムを望んでいる。
いかなるゲームにも勝者、あるいは敗者に分けられ、あるいは、生と死というシステムが導入されている。そして、プレイヤーは、勝者となる事、あるいは生き延びる事を目的として、勝つため、あるいは生き延びる為に、技術、スキル、知恵、ステータスと呼ばれるものを上昇させる。
しかし、実は彼らが真に望んでいる事は、勝者でもなく、不死でもない。ゲームに熱中する事だ。
何をどうしようと、絶対に勝てるゲームや、決して死ぬ事がないゲームを誰がプレイするだろうか?つまらない「クソゲー」と言われるのがオチである。そんなゲーム、誰もプレイしない。
つまり、ゲームのプレイヤーの真の目的は勝者となる事や不死となる事ではなく、勝つための手段を功じる、あるいは生きる手段を功じるというゲームに熱中する事が本当の目的なのである。
勝つ事ではなく、勝つため手段を功じる事に熱中する事、不死ではなく、生き延びる手段を功じる事に熱中する事が、実は彼らの真の目的だという事は、つまりプレイヤーはこのゲームシステムに自らが敗者になる可能性や死ぬ可能性が含まれている事を自ら望んでいるのだ。
そうでなくては、勝ち続ける為の手段を功じる事が出来ない、あるいは生き延び続ける為の手段を功じる事が出来ない。
ゲームのプレイヤーにとって勝つための手段を功じる事が実は目的であり、死なない為の手段を功じる事が実は目的である。そのためにこのゲームに敗者となるシステム、死というシステムは必要不可欠であり、勝者となる事、不死となる事が目的の様に見えて実は、そうではなく、それはゲームをより熱中させる為の手段であり、ゲームをより魅力的、刺激的にするスパイスである。そして良いゲームというのは、熱中させる為のシステムが死や敗者というシステム以外にも、多数導入されているゲームの事である。
まとめると
勝つ事、死なない事、あるいは目的と一般的に呼ばれるもの→ゲームをより熱中してプレイする為の手段。
勝つための手段を功じ続ける事、生き延びる手段を功じ続ける事、つまりとにかく熱中してプレイする事。→真の目的。
 
そしてこの世界も、自然によって構築されたシステムであり、自然によって作られた「ゲーム」であると言える。
人間が作ったゲームは自然のゲームシステムを模倣しているだけであり、オリジナルはこちらである。
つまり、勝者となる事、死なない事、あるいは一般的に「夢」だとか「目標」だとか呼ばれているもの、それはこのゲームに熱中する為の手段である。真の目的は、飽きもせず勝者となる為の手段を功じ続けたり、死なない為の手段を功じ続ける事、つまりゲームに熱中する事である。
勝利や不死は、我々が本当に求めているものではない。何をせずとも、必ず勝利してしまうゲーム、負けるという事が無いゲーム。そんなゲームまったくつまらないものであり、ゲームに熱中するという真の目的を達成する事は出来ない。あるいは、不死となると、生きるという事に熱中する事が出来なくなるだろう。また、不死はゲームバランスの崩壊を引き起こす。あらゆる道徳的なものの基盤となっているものが死である事は誰もが認める事であり、秩序、ゲームバランスが崩壊したゲーム(世界)はつまらなく、誰もプレイしたいと思わなくなるだろう。結果、このゲームをより熱中してプレイする為に、誰もが、敗者や死というシステムを熱望する事となる。
ゲームに熱中する事が真の目的である以上、飽きる事無く手段を功じ続けるという真の目的の為にあらゆる手段が用いられる。その一つが、「夢を持つ」「目標を立てる」という事であり、永遠に達成不可能、あるいは達成困難な「夢」や「目的」程、ゲームに熱中するという真の目的に貢献するので良い。もし万が一、達成されてしまったら、再び新たなかりそめの「夢」や「目標」を再び立て、永遠にゲームに熱中してプレイできるように、ゲームバランス(表向きの目的)が補正される。
死、敗者、欲求、評価、他者、無力、無知、あらゆるシステムが、このゲームに熱中させる為の手段であり、熱中させるのは、このゲームというもの自体にに内在する無意味さを忘れさせて、とにかく、プレイヤーにこのゲームに熱中してプレイさせる為である。ゲームの製作者、あるいは管理者である者の視点から考えると、自らが作成したゲームをプレイさせたいに決まっている。その為に、プレイヤーには、ゲーム自体に内在している無意味さを忘れさせる程に、プレイする事に熱中させなければならない。その為のシステムであり、秩序である。
その為、何もしないと死ぬというシステムを導入する。死というデスペナルティを与える事により、無理矢理でも、プレイヤーにこのゲームに参加させる事を強制する。
この無意味なゲームから脱する事が出来る可能性があるとしたら、このゲームをクリアする事ぐらいであろう。そしてゲームクリアの道は最も困難な道である事は当然なので、最も困難な、「真・善・美」の追求の道以外に、このゲームをクリアして「あがり」になる為の近道は無いように思われる。プラトンは、善のイデアに到達して「あがり」と考えていた。もちろん、このゲームのクリアに「魂」が関係しているのは間違いの無い様に考えられる。そして何もせずに手に入る死は、最も安易な道であり、それ相応のデスペナルティが待ち受けているのは必須であり、この無意味なゲームから脱する道からより遠のいてしまうのはゲームの製作者の視点から考えれば容易に想像が付く事である。

まとめると、本質的にゲームというもの自体に内在する無意味さを覆い隠す為に、ゲームの中に無限の意味を作り上げている。全ては、プレイヤーにゲームというもの自体に内在する無意味さを忘れさせる程に、このゲームを熱中してプレイさせる為に。

―断片集

≪宇宙の根源は真・善・美にして即ち神なり
万物の生成は神の活動力にして即ち愛なり≫
 
 
 
≪ファッションはただの自己満足。つまただのオナニー。誰かの為になる訳でもなく、自分の為になるわけでもなく、ただのむなしい行い。
そして生きる為に生きている者も同様にただオナニーしているにすぎない。
なぜなら生きる者は必ず死ぬ者であるから。
死ぬ者であるのに生きる事を目的とし生きる事はおよそ狂気の沙汰。
真・善・美の追求こそ究極の目的であり、生きる事はその手段に過ぎない。
およそ手段が目的に転倒する事(オナニー化する事)程、愚かな事はあるまい。≫
 
 
 
≪宇宙創成以前には暗闇が在った。無ではない。無は無い故に無なのだから、無であるならば暗闇ですら無いはずだから。暗闇に理性という光が現れる事により、暗闇であった事を知る事となった。理性という光が生じる前は、暗闇であった事も分からなかった。≫
 
 
 
≪世の中全体が、幻想に囚われているというのは本当である
勝手な思い込みに基づく自作自演。同じ観念を持つ者たちの共同体。そこで繰り広げられる壮大な芝居と茶番劇。全ては一夜より少しばかり長い、春の夜の夢の如し。≫
 
 
 
≪脳が意味や思いを作り上げているというは勘違いである。
そこにイスが存在している事と、それを見ている眼球が在る事とは別の事である。
眼球が無くなりイスが見えなくなろうが、イスはそこに存在する。
脳が無くなり、思いや意味が分からなくなろうと、意味や思いはそこに存在する。
脳があるから、思いがあるのではない。順序が逆なのだ。
まず先に光があったから目が創られた。目があったから光が創られたのではない。
まず先に音があったから、耳が創られた。耳があったから音が創られたのではない。
まず先に思いがあったから脳が創られた。脳があったから思いが創られたのではない。
まず先に意味があったから言葉が創られた。言葉があったから意味が創られたのではない。
 
生理学者が言う様に、脳が意識を生み出しているのではない。
脳はあくまで意識が生じる為の必要条件であり十分条件ではない。
ここでいう意識とはつまり、リアルな意識の事だ。
こういう思考実験を想定してみればすぐに分かる。
脳という物質がこの意識を生み出しているのであれば、科学技術を駆使し、自分とまったく同じ脳を複製するとする。神経線維の1本とて寸分違わず同じである。しかし、この脳に電極を刺しても、意識は生じない。物質的な脳が意識を生み出しているというのなら、全く同じ脳を作ったら同じように意識が生じるはずではないか。でも実際は生じない。つまり、脳が意識を生み出しているのではなく、脳ではない、何かがこのリアルな意識を生み出しているのだ。脳は意識を生み出すが、リアルな意識は生み出さない。そしてリアルでない意識など想像の産物にすぎない。他者の意識の様に。≫
 
 
 
≪カント。物自体という幻想に囚われた者。
我々が見ているのは物自体ではなく、物自体の影あるいは幻影というべきものであり、我々は決して物自体を見る事は出来ず、我々が見ているのは全て幻覚のようなものであるという考え。
なぜ、彼はあるものを一つの側面でしか眺める事が出来なかったのか。
自然には物質や精神等、様々な側面があり、一つの側面だけではない様に、なぜ、ものにも様々な側面を認める事ができなかったのか。
なぜ一つの形しか認める事が出来なかったのか。
例えば、ここにイスがある。
我々が認識しているイスの姿と、鳥や犬、コウモリやアリが認識した時のイスは、それぞれ異なるだろう。あるいは今日の私が見ているイスと昨日の私が見ていたイスはまた違って見えているだろう。
しかし、そのどれにおいても、そのように見えている限り、それは真実であり、疑う事の出来ないリアルさがある。
例えば、薬物の摂取によりイスが机のように見えていても、机のように見えているというその時に限り、それは疑う事の出来ぬ真実である。
仮にもし、カントが言う様なイス自体が存在したとして、それが認識できたのであれば、それも、カントが言う様に、イス自体の影、あるいは幻影と化すのではないか。
つまり、イス自体をついに認識したと思ったがつかの間、イス自体でなくなるというジレンマに陥る。
つまり、イス自体は認識出来てはならぬ。仮に認識できるのであればイス自体は存在する事は出来ない、という事になる。
認識される限り存在してはならぬ。認識されない限りにおいて存在する。そんな物ただの虚妄であろう。そんなややこしい事をせずとも、初めから物自体など存在しないとするほうがより美くしいではないか。あるものを認識している限り、その全てにおいてその都度、その認識は正しい。あるものは様々な側面を持つ故に、同じものでも、ある側面とある側面を比ぶれば矛盾する様に見えるが、あるものの側面である限り、そのどちらの認識もやはり正しいのだ。例えば物質は粒子でもあり波でもあるように。≫

―断片集

―断片集
 
≪笑いについて
理性が失われる事。睡眠、性交、そして笑い。
笑ったら負け。
なぜなら、笑いは我々に教えてくれるからだ。
自らがある観念に囚われているという事を。可能性、思慮の浅さを、懐疑の甘さを。
あなたが、笑うのは私のせいではない。
私は、ただ、別の可能性の一つを提示しているだけで、あなたが笑うのは、ただ、あなたの思慮の範囲内にそれがなかっただけという事。
私のせいにしてはいけない。あなたの思慮の甘さが引き起こした事なのだから。
自分の行為を見て笑う。自己矛盾に陥り笑う。
やはり、それも思慮の甘さがもたらしたものだ。
矛盾とは自らの思慮の甘さがもたらす。
矛盾とは自らの思慮の範囲外に何かが生じる事。
冷静でなかったから逆に思慮の範囲外の行動が行えていたのであり、後で通常のガチガチの固定観念状態で観察すると、思慮の範囲外となるので、笑いが生じるのだ。
つまり、もともと、冷静に思慮深くあり、可能性の範囲内の行為を行っていたのであれば、思慮の範囲内であるので笑う事はない。
笑いとは、思慮の範囲外に生じた事、つまり矛盾した事を考えさせない様に排除する為のチリ取りの様なものだ。笑えば吹き飛ばせる。いうならば、笑いとはある固定観念を保持させる為の手段であり、懐疑、あるいは考えるという理性的なものとは、真逆の作用を示す。
つまり、笑いは自らが理性的でないという事を示す。
思慮が浅く、ある観念に囚われているという事を。
その事に気付かせてくれる。
笑って楽しんでいる場合ではない。
それは、恥るべき事であり、自らの思慮の浅さ、懐疑の甘さを反省すべき事。≫
 
 
 
≪幸福について
沢山所有していなければ幸福になれない者と少しの所有で幸福になれる者ではどちらがより幸福であるか。
沢山所有しなければ幸福になれないものは、幸福である為の条件がより困難であり、幸福でなくなる可能性がより高く、それらが、彼を毎日毎晩悩ませるだろう。なぜなら多くを所有している者は失う場合も大きいが、少ししか所有しない者は失う場合も少しで済むのだから。
故に少しの所有で幸福になれる者の方が、多くの所有で幸福になれる者よりも、より幸福である事に違いない。
しかし、少しの所有で幸福になれる者より、何も持たずして幸福になれる者の方がより幸福である。なぜなら、何も持たずして幸福になれるという事は、幸福を失う事は無く、ただ在るというそれのみで幸福であるという事だから。
即ち、より幸福に近づく為には、所有するものを減らしていく必要があるのだが、多くの者は真逆の事を行う。即ち、より多くを所有できないと幸福になれないようにする。
だから、より不幸へと近づいていく事になる。≫
 
 
 
≪<私>がいつ生じたのかと問う事は、宇宙はいつ誕生したのかと問う事と同じく、愚問である。<私>が在るから世界が生じた、宇宙が在るから時間が生じたのであり、つまり、<私>あるいは宇宙が存在するから時間も生じたのである。<今>なしに未来や過去については何も言及できないように、<私>や宇宙なしに、いつ生じたのかと問う事すら不可能なのである。つまり、そのような問いをする事が出来るのも、<私>や<宇宙>が存在していたからであり、作られたものが、作ったものより前に存在する事など不可能である。故に、作られたものが、作ったものの前について言及する事など不可能。相対的な存在が絶対的な存在について言及する事が不可能でるように。
時間と言う事により、時間自体が存在するように錯覚するが、時間自体が存在する訳ではない。時間とは観念にすぎない。時間自体が存在するのではなく、何か変化するもの、物質であったり精神であったりするものがあるだけである。何か変化するもの(物質や精神とよばれるもの)が在るから、時間という観念が生じるのであり、物質や精神なしに、時間自体が存在する事は出来ない。物質や精神のような何か変化するものには、それぞれ変化する程度の差があり、その差が時間とう観念を生み出すのである。これは早い、あるいは遅いと相対的判断に基づいて。言うなれば、時間とは精神、物質の変化の事。そしてその様な変化は<今>の内で生ずる。世界は<今>という形式の内に存在する。<今>とはつまり、<私>の事である。故に、<私>や物質や精神なしに、時間という観念が生じる事もない。故に<今>がいつ生じたのか、<私>がいつ生じたのか、あるいは<宇宙>がいつ生じたのかと問う事はそもそも不可能なのだ。時間という観念は<今>の内でしか存在出来ぬから。≫
 
 
 
≪実在と呼ぶものは、表象としてあらわれたものなのか。それとも表象としてあらわれる以前のものか。君がそれがコップだと思ったのはなぜか。君がそれをコップだと決めた、根拠や条件を述べよ。君は、形あるものを見て、触れる事により、そこに形なきもの、つまり、形となる以前の思い、理念を読み取り、それを故に、それをコップと決めたのではないのか。つまり、それがコップであるのは、形や色、質などのみえるものに依存するのではなく、表象以前の思いや理念であるみえざるものに依存するのではないのか。つまり、それがコップである条件として表象は必要条件であって、十分条件ではない。
あるいはそれを、コップであるとしたのは、無条件に無根拠に、ただ、今までの習慣に従ってそれをコップだと決めつけたのであれば、それは別にコップと呼ぶ必要性は無く、別の名で呼ぶ事も可能であったはずだ。
可能なものを不可能にするのは習慣であるから。
君がそれをコップだといって、全員が同じくそれはコップだといってもそれはコップなのではない。それがコップであるという観念を持つ集団(観念共同体)がいる事を示すだけで、それがコップなのではない。それは、ただ知覚される何かに過ぎない。真の実態はそのような表象ではなく、表象され、具現化される以前、現象の根底に働く、理念や思いだ。
製作者の理念、思いがまず初めに在り、やがてそれが具現化され表象される。我々は表象の根底に働く理念、思いを推測する事が出来る。
ある現象を知覚し、その根底に働く、理念、思いを推論する事により、我々はそれがコップであると分別する。どれだけ、コップらしき表象をしていても、そこに理念、思いを感じなければそれはコップであるとは言えない。例えば、どれだけ斧らしき表象をしていても、そこに、製作者の理念、思いを感じる事が出来なければ、それは石器ではなく、石と呼ばれるように。≫

―<私>の成立と人類の間にはいかなる関係性もない。

―<私>の成立と人類の間にはいかなる関係性もない。
 
考えてみて欲しい。
人類が一人しかいない世界を。その一人が<私>であるとは限らない。
普通に考えてみて、何十億人の内、たった一人の人間が私なのだから、たった一人の人間が私である可能性は宝くじに当たるより低い確率である事が分かる。
では人類が2人に増えたとする。しかし、その2人の内どちらかが私である可能性は極めて低い。むしろどちらも他人だろう。
では3人、4人、・・・と、どんどん人間を増やしていく、さぁどこで私は成立する?
100人?1万人?一億人?100億人?少し考えてみると分かるが、人類が増える事と、<私>が成立する事にはいかなる関係性も無いという事が分かる。同じく、もし今後、人類が進化して別の種になる事とも<私>の成立にはいかなる関係性もない。
つまり、<私>は物質や精神(魂)をいくら増やしたり、変化したりした所で<私>の成立とはいかなる関係性も無いという事。
人類が発生しようが、消滅しようが、<私>の成立にはいかなる関係性も無いという事。
<私>の発生には要因とか原因というものがごっそりと抜け落ちている。
ただ、無条件に無根拠に急に<私>は成立する。
つまり、全ての物質と精神(魂)を集めても<私>を作る事は出来ない。
<私>とは、物質でも精神でもない。<私>は物質とか、精神とかとは別の次元に属している。
なので、物質とか、精神(魂)とかが、消滅しても<私>の成立とは関係ない。
死が物質とか精神とかの変化であるとしても、<私>の成立とは関係ない。
物質や精神が生成、消滅しようが、<私>が在るのならば在るし、無いのならば無い。
物質や精神(魂)と、<私>にはいかなる関係性もない。
<私>の成立には、物質や精神以外の何かが関与する。
なので未だ、物質も精神も無い宇宙に<私>が存在していた可能性は十分にありえる。
故に<私>はただそれのみで存在する事が出来ると考えられる。
つまり<無限>
物質や精神が有限的存在であるとするならば、<私>は無限と考えられる。
有限の数である1(物質や魂)をいくら足しても(集めても)無限にはならない。
もし、1を足していき無限に達したのなら、それは、限りがあったという事であり、無限ではなく有限である事になるから。
逆に無限からいくら1(物質や魂)を引いても(消滅しても)無限である事に変わりはない。
もし、変化したのなら、それは有限であり、無限ではないという事になるから。
無限が奇数(物質)だとか偶数(魂)だとかいう事も出来ない。
もし奇数だとか偶数だとか決めれたのならそれは限りがあったという事になるから。
つまり、無限が在る事は分かる。しかし、それが何であるかは分からない。
所で、無限と呼べるものがもう一つある。宇宙だ。
<私>も無限と呼べるべき存在である事が分かった。
つまりここに来て<私>=宇宙が一致する。
つまり、<私>とはいかなる物質的、精神的内容ではなく
世界を成立させている形式。
世界を成立させているそのもの。
世界を開闢させる何か。
宇宙を発生させたのは140億年前のビックバンではない。
<私>が成立した事だ。<今>が発生した事だ。
<私>の成立が、真のビックバンといえる。
 
奇跡はもはや必要ない。
奇跡はすでに起きている。
<私>が存在するという奇跡が。
 

―宇宙のあらゆる現象の根底に働いているのは、善なる理念である

―宇宙のあらゆる現象の根底に働いているのは、善なる理念である
 
例として宇宙の中に存在する人間について考察してみると、いかなる人間であろうとも、善いと思った事しか行わない事が分かる。
善人と呼ばれるものは、個人を超えて広く普遍的な善を目指し、
悪人と呼ばれるものでさえ、狭く個人的な善を目指しているのであり、
いかなる人間であろうとも、自らが善いと思った事しか行動しない。
いわんや、人間がそうなのなら、人間を生み出した宇宙が、そうでないというのは、普通に考えておかしい。
人間の善なる意思を生み出したのは宇宙だ。
自分が知らないものを作れる事などあるだろうか。いや無い。
自分が作ったものなら、作られたものについて自分が知っていなければ作りようがないではないか。宇宙は自らのが有す善なる意思を模倣して、人間の善なる意思を作ったと考えるのが常識的ではないだろうか。
そして天体や地球、生命、人間は今の物質科学が述べるように、ただ丸いボール(素粒子)がビリヤード玉のように、何度も衝突を繰り返していたら、たまたま作られたというのでは決してないという事だ。
例にならって、宇宙より作られた人間を例として考えてみればいい。
「ここにあるイスは、ただ、木材と釘が何度も衝突を繰り返した事により、最も、安定した構造をしているこの状態が最後に自然陶駄によって生き残ったのです。」という説明を聞いてだれが納得するだろうか。
この椅子が偶然このような構造をしたのではない事は誰の目にも明らかだ。
もともと、あるイメージ、理念が先にあり、その理念の実現に向けて、何度も材料自体の加工や、木材や釘の結合状態を調整する事により、イメージに近づけていった結果がこのような構造になったのだ。
イスだけなら、理念(イメージ)と現実のギャップを埋めていき、イメージに近づけていくのは短時間で済むが、家や車、あるいは飛行機となると、より時間が掛かるのは必然。
ましてや、天体や動植物、人間とより複雑な構造になるにつれ、イメージと現実のギャップを埋めるのはより時間が掛かるの言うまでもない。まず、そもそも材料がないので、材料を作り、加工し、結合し・・・想像を絶する労力と時間が掛かる。
人間は宇宙より作られた。人間は宇宙の縮図だ。どうして、作られた者の能力を作った者が有していないなどありえようか。ましてや、作られたものの能力より、作った者の方がより強大な能力を有していると考えるのは当然である。
人間が自己でまかなえるだけの狭い範囲の善を目指すのであれば、人間を生み出した宇宙は、それより、もっと広大で、無限大の範囲の、究極の善なる理念に向けて行動していると考えるのが自然ではないだろうか。究極の善とは即ち究極の愛である。
愛なしに善は行えない。
利己的な善を目指すのであろうとも、自己を愛していなければなるまい。
宇宙は無限大の範囲を包括する究極の愛ゆえに、究極の善を目指す。
その理念の実現の為に万物は生成されていく。
即ち、愛は万物生成の要因であり、目指す所は究極の善である。
そういう意味では、宇宙は自己を愛している故に善を目指していると言える。
宇宙にとって、自己とはつまり全てである。
全てを愛し、全ての善を目指す。
 
イスの形がある木材と釘の結合によってそのような形になっている。
あるものとあるものがある結合によりある形になる。何度やっても同じ。それは必然である。
しかし、その様な形になったのはたまたまではない。
まず根底に理念、思いがあり、そのイメージが在ったからに他ならない。
 
水素が水素原子と水素原子により結合しているのは、電磁気力、重力、核力などによる相互作用力により必然的にそうなる。
しかし、その必然の根底に真の原因、即ち、宇宙の愛、善なる理念が働いている。
それは宇宙の縮図である我々自身について考えてみればすぐに分かる事だ。
なぜならこの世界はみえざるものがみえるものを動かしているのだから。