―存在とは何か

真理への飽くなき追究

神について―キリスト教徒とソクラテスの対話

神について―キリスト教ソクラテスの対話
 
キリスト教徒「そこの、老人」
ソクラテス「ん?ボクの事かい?」
キリスト教徒「そうです。私は今、日本に来て素晴らしき神の教えを伝えています」
ソクラテス「はー、それはご苦労さん」
キリスト教徒「あなたは、神を信じますか」
ソクラテス「神ねぇ…君はどうなんだい」
キリスト教徒「もちろん、私は神を信じます。」
ソクラテス「そーか、なら君は神を疑っているんだね」
キリスト教徒「は?なぜそうなるのです」
ソクラテス「だって信じるって言葉は、疑っていなければ出てこないじゃないか。ここに掌がある。でも君は『掌がある事を私は信じる』とは言わないだろう?それは掌が存在する事は真実だからだ。在るものは、僕たちが信じようが疑おうが、関係なく在るし、無いものは僕たちが信じようが疑おうが無い。つまり、在るものは在り、無いものは無い。これが真理さ」
キリスト教徒「・・確かにそう、あなたが神をたとえ信じようが信じまいが、神は存在しているのです。」
ソクラテス「うん、ボクもそうおもうよ」
キリスト教徒「そして、神とはこの世界の創造主であられます。あなたは、人間を構成しているアミノ酸をただ衝突させていった所で人間が生じると思いますか?有名な生物学者は言っています。そのような事は不可能であると。偶然に木材を衝突させて家は作れませんよね。即ち、家は我々の意思によって作られた。同じように世界は神の意思によって創られたのです。」
ソクラテス「君は家が創られた原因は人間の意思だと言っているけど、それは妥当な認識なのだろうか。だって意思は外部の原因によって生じるものだよね。家をつくろうという意思が生じたのだって、雨や風や日差しが強いからだとか、外部の者に襲われる危険があるだとか、自分の持ち物を安全に保管したいからだとかいう様々な原因により生じた観念の一つだろう。さらに雨や風や日差しが強いのだって、外部の原因により成り立っている、このようにして無限に続く訳だ。つまり、家が創られた原因が人間の意思だと言うのはあまりに横暴な考えだと思うけどね。だってそれは家が創られた原因の極一部にすぎないじゃないか。同じ様に神が世界を創ろうという意思を持ったのだって、それ以外にその様な意思を持つに至った様々な原因がなければおかしいじゃないか。つまり神が世界を創ろうという意思によって世界を創ったのだと仮定すれば、神以外の外部の原因により世界は創造されたと言っている事に他ならないじゃないか。つまり、神は世界を創造した真の原因ではなく、神にそのような意思をもたせた他のものが原因だという事になる。つまり、世界は神の意思を原因として創造されたのではない事になるね。」
キリスト教徒「では世界は、たまたま、偶然により生じたとでもいうのですか」
ソクラテス「まさか。世界はこの世界以外のいかなる在り方でも存在する事は出来なかった。なぜなら、ある結果は原因を含み、かつそれに依存するからだ。即ち、ある原因は結果を生じ、さらにその結果は新たな原因となり新たな結果を生む。このようにして無限に進むからだ。我々が偶然とか可能とか言う時、それはただ、我々の認識力の不足に他ならない。世界は原因と結果の秩序により必然的に生じ、それを破る事は不可能であり、人間もまた自然の秩序により必然的に存在する。人間がどのようにして創られたのか原因が分からないからといって、それが偶然だとか、人間が創られない事も可能だったとか、人間が創られたのは神の意思によるものだとか思うのはただ、我々が原因を妥当に認識できていない、我々の認識力の不足に由来するものなのであって、非妥当な認識に他ならない。現在、ボク達が認識出来る事だけで説明する事が出来ないという事は、まだ僕たちが知らない事が原因であるという事だ。だから、僕たちは分からないからといって、偶然だとか、可能とか神の意思とかに逃げるんじゃなくて真実を探究するべきなんだよ。一歩一歩確実にね」