―存在とは何か

真理への飽くなき追究

意識とは何か―独我論者と結果論者の対話

意識とは何か―独我論者と結果論者の対話
 
結果論者「今日は意識とは何か?について話し合おうとおもうが、単刀直入に聞きます。意識とは何ですか」
独我論者「意識、それは世界を成立させているものです。そして意識とは<私>の事です。私とは、人間でも、○○という名前でも、○○という所属でも、属性でも性別でもない。
意識が在る=私なのです。たとえ、蝶であろうと、植物であろうと石ころであろうと・・・」
結果論者「つまり、意識が無い=世界が存在しないという事ですか。」
独我論者「そうです。意識が無い世界というのは存在しません。」
結果論者「その意識とは他人の意識の事ですか、それとも私の意識の事を言っているのですか」
独我論者「私の意識の事です。あえて言いますが、他人の意識が在るという事は私の意識が在って初めて分かる事ですよね。つまり私の意識が無ければ他人の意識も無い。他人の意識が無く、私の意識だけがある世界は想定可能です。しかし私の意識がなく、他人の意識だけがある世界は想定不可能です。つまり、私の意識があるから世界は存在するのです。」
結果論者「という事はつまり、あなたは寝ているときに意識が無い事を認めますよね?あるいは、私がここであなたの後頭部を殴りつけ、あなたの意識を一時的に無くしたとします。この場合、あなたの意識が戻るまで、世界は存在しないと言っているのですか?」
独我論者「そうですね。なぜなら、世界はまるごと、私の意識の中にあるからです。私の意識が無くなるという事は世界がまるごと無くなるのは当然です」
結果論者「それは存在が無になるという事ですか」
独我論者「そうですね」
結果論者「ちょっと待って下さい。それは不条理ですよ。無いというならば、だれがそれを認識しているのですか。無いは在るに依存して成立するものでしょう。あなたの意識が無いという事を認識してるのはあなたの意識でないなら、他人の意識ではないのですか。つまりあたなの意識が無いと言えるのであれば、世界が存在しないのではなく、他人の意識が在る事を示す、つまり世界が存在している事を意味しているのではないですか?」
独我論者「いや、私の意識が在る事や無い事に他人の意識は関係ないよ。さっきも言った様に他人の意識がなくても私の意識は成立するだろう?というか、他人の意識をが在るという事を成立させているのは私に意識なんだから、他人の意識は私の意識に依存して成立する」
結果論者「でもあなたの意識が無い時、それを認識する者が必要だ。つまりあなたの意識が無い時に必然的に他人の意識は存在している」
独我論者「うーん・・」
結果論者「私が疑問に感じているのは、あなたがいう様に、私の意識が存在するから世界は存在しているだという考えについてなのです。つまり私の意識に世界創造の神のごとき力を与えてもいいのかという事です。私は、むしろ逆に、世界が存在しているから意識は生じた。つまり私の意識が在る事は世界が存在している事の結果であり、世界が存在しているから私の意識は存在していると思うのです。」
独我論者「つまり私の意識が存在せずとも世界は存在すると?」
結果論者「だって寝ている時は私の意識はない。その間、世界が無いと考えるより世界があると考えた方が常識的です。」
独我論者「まってくれ、私の意識が無い時、意識が無いと言えるのはなぜなのか?私の意識が無い時にいったい誰が、意識が無いといっているのか?」
結果論者「だから、それが他者ですよ。他者は、意識が回復した私に教えてくれるわけですよ。私の意識が無かったという事を、私の意識がない時に生じた世界の出来事を伝える事によって、私の意識が無い事を証明してくれるのです。」
独我論者「もし、私の意識が回復しなかったらどうなる。私はどうやって私の意識が無い事を知る事が出来る?」
結果論者「回復しなかったら、永遠に自分の意識が無い事を知る事はありませんね。意識が無いのですから知りようがありません」
独我論者「。。。。んーとつまり、いや、しかし、私の意識が存在するという事は、他人の意識が存在する事と同等とはどうしても思えないのだ。分かるかね、この感じが。私が存在する事は、人類を何万、何億と増やしていった所で、必然的に生じるものではないのだ。しかし、他者の意識は人類が一人増える事により必然的に一つ生じる。しかし、私の意識が生じる事は、人類をいくら増やしていったところで必ず生じるというものではない。つまり人類が存在するからといって私の意識が存在するとは限らない。つまり人類が存在する事と私の意識が存在する事に関係性はないのだ。むしろ私の意識は、何かこう急に、突然に、無根拠に、無条件に、あるいは偶然に、生じるものであって、決して他人の意識の様に、人類が一人増える事により必ず一つ増えるような、必然的なものではなく、奇跡としか言いようがない、神秘そのものなんだよ。そのような私の意識に世界を成立させる力を与える事は、それほど間違っている事なのか・・・」
結果論者「私の意識が存在する事は神秘そのものであるという事は同意見です。しかし、それは他人の意識にも言える事なのですよ。実は。私の意識が存在する事は奇跡。しかし、それは他者も意識も同様なのです。つまり、私の意識に世界を成立させる力を与えてしまったら、それは同様に他者の意識にも世界を成立させる力を与える事になってしまいます。それだと意識の数だけ世界が複数存在する事になってしまいます。しかしそれは不条理です。なぜなら世界(宇宙)は無限だからです。なぜ宇宙が無限かというと、もし宇宙に果てがあると仮定すると、そこに何らかの境界、区別を引けたという事です。つまりこちら側と向こう側を認識したという事です。向こう側を認識しているという事は向こう側が在るという事に他ならないので、宇宙に果てがあったら果てではないのです。つまり宇宙は無限だという事です。無限だという事は外部が存在しないという事です。つまり、一つという事です。なので、意識の数だけ宇宙(世界)が複数存在するという仮定は宇宙が一つである事と矛盾します。つまり、宇宙は無限なので外部は考えられませんので、必然的に宇宙は一つだけという事です。ですから宇宙が複数存在するという事は不条理です。なので意識の数だけ、宇宙(世界)が存在するという事は宇宙が一つである事と矛盾するので在りえません。なので意識が世界を成立させている力を有しているというのは間違っています。意識は力ではなく、結果なのです。認識力により世界を認識した事の結果が意識であり、認識出来た結果しか我々は意識できません。つまり私の意識が存在するから世界が存在するのではなく、世界が存在しているから私の意識が存在しているのです。意識が存在する原因は宇宙(世界)にあります。宇宙は無限なので、無限の関係性、つまり理解出来ないほどの無限の関係性(原因)によって私の意識は成立しているのであり、我々は無限の関係性、無限の原因を理解する事は出来ません。分からないから、意識が突然に、無条件に、無根拠に、偶然に生じたと勘違いしてしまうのですが、しかし、私の意識が存在している事は背後に無限の原因が潜んでいるのです。つまり宇宙の必然の元、私の意識は生じたのであり、決して偶然に無根拠に生じたのではなく、それはただ、我々に理解出来ないというだけです。」
独我論者「なるほど、少し、独我論から脱せる道を見つけたような気がしたよ」