―存在とは何か

真理への飽くなき追究

―平等、自由、権利という言葉に含まれる毒気

―平等、自由、権利という言葉に含まれる毒気
 
人間は、平等であり自由である、我々はそれを有す権利がある・・・このような叫弾に含まれる「毒気」を感じるだろうか。
この毒気の正体は何かというと、つまり、「いいから黙って俺の好き勝手にさせろ」という本音を綺麗事を述べて主張しているだけという所にある。
そもそも人間であるばかりか、この自然においてありとあらゆるものは力の種類、方向性が異なり力の大小も異なる。何一つとして同じ力はなく、不平等なのである。であるから、全ては不平等であるという限りにおいて平等である。
そもそも、あらゆるものが平等であったのなら、この世界は全てが一様であり、何一つとして創造される事はなく、もちろんその様な世界に人間も存在しないのである。
自由を主張するという事は、自由に反するという事に気づいただろうか。俺に自由をよこせ!と主張するという事は、つまり自由とは、他人の是非により決定されるものであるという事になるが、どうして他人から与えられなければ成立しないものが自由であろうか。
つまり自由を主張するものは、そもそも自由とは何かを分かっていないのである。要はただ、「俺の好き勝手にさせろ邪魔をするな」という勝手なわがままであり、サルの雄たけびや悲鳴なようなものにすぎない。
自由とは、自己がどのような力を持っているかを知る事から始まる。魚が水の中から出ようとする事は自由になる事ではなく、不自由な状態である。魚は、「泳ぐ」という能力を有しているのであり、自己の能力を最大限発揮して「泳ぎ回っている」状態が自由なのである。
先ほど、あらゆるものは持っている力の種類もその大きさも異なるので、自然は不平等であるという事を述べた。もちろん人間、各個人においてもそうなのである。あらゆる人間は持っている力の種類もその大きさも違う、不平等である。それが自然なのである。
それであるにも関わらず、人間は他人よりも優位に立ちたいという欲望を持つ。それが「利己愛」と呼ばれるものである。利己愛を持つことにより、自分と他人を比べて優位だと感じれば「優越感」を抱いて喜び、自分が他人より劣っていると感じれば「劣等感」を感じて悲しむ。時に人は、優越感を得る為に、他者の活動を阻害したり他者を落としめようとする。これは、家族や学校のという小さな社会集団から、会社という大きな社会集団に至るまで、つまり人間の社会集団があれば、必ずどこでも生じる愚かな現象である。
利己愛をなぜ持ってしまうかというと、人間が等しく同じ力を持っているという思い込みに基づいている。しかし、これはさっきも言った様に間違いである。
 
自分と他人を比べて優れている、劣っていると一喜一憂する事は非常に愚かな事である。なぜならば、先ほども言った様に、自然において個物は異なる種類の力を持ち、異なる大きさの力を持つ為、あらゆる個物の能力は不平等である。しかし、この不平等さが自然におけて創造と秩序の本質である。
であるから、人間は他人と比べて自分の能力の優劣を図るのは愚かである。では何と比べるかというと、「以前の自分」とだけ比べればいいのである。
以前の自分よりも、少しでも自分の能力が高まっているかどうか、発揮出来ているかどうかで優劣を判断すればいいのである。
他人と自己の能力の優劣を比べて一喜一憂する事の愚かさは、カメよりも早く歩ける事に優越感を感じて喜んでいるウサギの愚かさに等しい。あるいは、北風のように皆を涼しくする事が出来ないと嘆いている太陽に等しい。
個物の持っている能力の力の種類と大きさはそれぞれ異なるのであるから、まずは自己がどのような能力を持つのか知る事。他人と比べるのではなく、自分自身を見つめる事。次に、自己の能力を以前の自分より、出来る限り高める事、発揮できるように努力する事。
先に述べた様に、自由とは自己の能力を最大限発揮している状態の事である為、他人と比べるのではなく、自己の能力を以前の自分と比べて、より高めていく事、発揮していく事が自由であり、幸福に至る最短の道である。
逆に、自己の能力を他人と比べて優越感や劣等感を感じて一喜一憂する事は、愚かであり不幸へと至る道である。
 
なぜなら幸福とは、他人と比べて(依存して)幸福になったり不幸になったりするものではなく、ただ自己に依存して成立する結果である。
即ち、幸福とは、自己の能力を最大限発揮している状態を示すものであり、ただ、自己に依存して成立するものなのであるから、他人と比べて幸福、不幸と言っている限り、一生、幸福が訪れる事はないのである。