―存在とは何か

真理への飽くなき追究

―おもしろさと笑いについて

―おもしろさと笑いについて

 

 公理一 世界には多くのものが存在する。

 公理二 個物は世界の多くのものの中の一部である。

公理三 おのおののものは自己の有を肯定し固執する事に努める。

 

定理一 身体、及び精神がより多くのものに反応し知覚する事が出来るつれ、個物にとってより有益となる。

証明 我々の外部には、自己に有益なもの、有害なもの、どちらでもないものが多く存在する(公理一より)。個物は自己の有を肯定し固執する事に努める(公理三より)。故に、外部のより多くのものに身体が反応し、精神が知覚する事が出来るにつれ、自己に有益なもの、有害なもの、そのどちらでもないものをより多く認識する事が出来るようになる。故に身体及び精神がより多くのものに反応し知覚する事が出来るにつれ個物にとってより有益となる。Q・E・D

 

定理二 身体、及び精神をより多くの仕方で刺激するようなものは個物にとってより有益である。

証明 前定理より明らかである。Q・E・D

系:反対に、身体及び精神を同一の仕方で刺激するものは個物にとって有害である。

証明 身体、及び精神が同一の仕方で同一の刺激のみに反応している限り、それ意外の外部の多くのものを知覚し反応する事が困難となる。故にその様な、身体及び精神を同一の仕方で何度も刺激する様なものは個物にとって有害であり、悲しみを感ずる。その様な同一の刺激の観念を伴った悲しみの感情を『退屈』と呼ぶ。

 

定理三 より多くの刺激に変状し知覚する事が出来るような身体及び精神は個物にとってより有益である。

証明 定理一より明らかである。Q・E・D

備考 人間の身体及び精神はノミの身体及び精神よりも、より多くの外部の刺激に変化し知覚する事が出来る点において有益である。犬の嗅覚は、より多くの空気中の微小な物質に対して身体を変状させ、知覚する事が出来るという点において、人間の嗅覚よりも有益である。

系 わずかな刺激にのみしか反応する事が出来ないような身体、及び精神は個物にとって有害である。

証明 前定理より明らかである。そのような身体及び精神は、外部に存在する多くの有益なもの、有害なもの、そのどちらでもないものに対し、反応し知覚する事が出来ない。即ち、自己にとって有害である。

備考 このことから、身体及び精神をある刺激のみに虜にさせるようなもの、あるいはそのような単一の刺激のみに反応し知覚する、即ち熱中する事は自己にとって有害である。故に、金儲けの事ばかりに囚われる事や、情婦の事ばかり考えたり、酒におぼれる事、名誉の事ばかりを考える事、薬物の依存症になる事が自己にとってなぜ有害であるかという事が理解出来る。

 

定理四 身体及び精神がより多くの刺激により多くの仕方で変状するにつれ喜びを感じる事になる。

証明 身体及び精神がより多くの刺激に反応し知覚するにつれ、より多くの外部のものを認識し、それらに接近し、摂取し、逃避し、破壊する事が可能となる。(定理一より)即ち自己にとってより有益となり喜びを感ずる事になる。

 

定理五 新たな観念の連結が生じるたびに喜びの感情が生ずる事になる。

証明 身体及び、精神がより多くの刺激により多くの仕方で変状し知覚するにつれ、より多くのものを認識する事が出来、精神の内に観念の新たな連結が生ずる事になる。(定理一より)またその様な新たな観念の連結が生じるたびに喜びの感情が生じる事になる。(前定理より)

備考 このような新たな観念の連結に伴う喜びの感情を『面白い』という。故により多くの新たな観念が連結するほど、面白さは増大する。

 

定理六 精神は妥当な認識を肯定し、非妥当な誤った認識を否定する。

証明 世界には自己に有益なもの有害なものどちらでもないものが多く存在する(公理一より)故に、存在するものを妥当に認識する事は自己にとって有益であり、存在するものを非妥当に認識し、誤った認識を有する事は自己にとって有害である。故に精神は妥当な認識を肯定し、非妥当な誤った認識を否定する。Q・E・D

 

定理七 意味とは、有限の語の関係性において成り立つ。

証明 言葉の構成要素である語は有限である。世界の内部は無限に多くの事象が存在する。故に有限の語を組み合わせる事により無限に多くの事象を言葉によって説明する。従って語には単一の意味は存在せず、使用される状況によって語は様々に組み合わさり様々な意味を持つ事になる。故に語には単一の意味は存在せず、語の組み合わせにより様々に変化する。即ち意味とは、有限の語の関係性において成り立つ。Q・E・D

定理八 無意味とは、誤った語の関係性である。即ちある状況においてその状況にそぐわない語の関係性である

証明 同一の語が、その語が使用される状況によって、あるいは他の語との組み合わせにより異なる意味を持つ事が出来る(前定理より)。故に同一の語であっても、おのおのの状況によって、他の語との組み合わせ(関係性)はそれぞれ異なる。(同じ『甘い』という語が、状況によって『人に』という語と結合したり、『ケーキが』がという語に結合したりする事により『甘い』という語の意味が変化する。)故に、ある状況にそぐわない様な語の組み合わせは、誤った語の関係性であり、その状況においては意味として成立しない、即ち無意味である。

定理九 矛盾は無意味である

証明 矛盾とはAが存在しかつAが存在しないという状況である。それ自体で明らかなようにこの様なものは理解する事も考える事も出来ない。即ち、このような語の組み合わせ(関係性)はいかなる状況も説明しない。即ちいかなる状況においても意味として成立しない。即ち無意味である。

 

定理十 無意味である語の関係性を精神は否定する。

証明 ある状況にそぐわない様な語の組み合わせや、ある状況を何ら説明しない語の組み合わせは、無意味である。(定理八及び九より)無意味とは誤った語の関係性である(定理八より)精神は誤りであると判断するものを否定し、妥当と判断するものを肯定する(定理六より)。故に無意味である語の関係性を精神は否定する。Q・E・D

 

定理十一 新たに連結された観念が無意味であると判断された時、その様な観念は喜びの感情と共に否定される事になる。

証明 身体、及び精神がより多くの刺激に対して反応し認識する事により、精神の内に新たな観念の連結が生ずる事になる。(定理一より)。またその様な新たな観念の連結は喜びを伴う(定理五より)また、その様に生じた新たな観念の連結ないし組み合わせが、その状況にそぐわない語の関係性や、その状況を何ら説明しない矛盾した関係性の場合、無意味と判断する事になる(定理八及び九より)その様な無意味な観念の連結を精神は否定しする(定理十より)従って、新たに連結された観念が無意味であると判断された時、その様な観念は喜びの感情と共に否定される事になる。Q・E・D

備考 このような新たな観念の連結に伴う喜びの感情(面白さ)と共に、新たに生じた観念が無意味であると判断され否定される事に伴う精神および身体の変容は『笑い』と呼ばれる。この事から、より多くの刺激に身体及び精神が反応し、新たな観念の連結が生ずる事により面白さは生ずるが、そのように生じた新たな観念の連結を無意味であると否定しなければ、笑いは生じない。一方、笑いは、新たな観念の連結が生じ、かつその観念が否定される事により初めて生ずる為、必然的に面白いという感情を伴う事になる。また、単に既存の観念を否定する場合は、笑いは生じえない。(下図参照)

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新たな観念の連結∧観念の否定→笑い

 

生きる事の意味についての小論

はじめに

必ず一生の内に誰しも一度は考える事、それは「生きる事に意味はあるのか?」という問いであろう。

しかし、この問いは正確には次の3つに分類される事になる。

①生きている事の目的はなにか?

②いずれ必ず死ぬのに生きる事に意味はあるのか?

③生きているはなぜか?

 

③について理解すれば、必然的に①と②についても理解したことになる。

そもそも自分が生きている=存在しているという事はある結果である。故に必ず原因がある。つまり、原因と結果の関係性を理解する必要がある。

<公理>

一、いかなる結果もある原因なしには在る事も考える事も出来ない。

二、原因は結果に先立つ

三、原因はある結果が存在する様に必然的に決定し肯定するがこれを否定しない。

四、結果は原因の認識を含みかつそれに依存する。

五、結果の力は原因の力を含みかつそれに依存する

六、原因は結果よりも大なる力能ないし完全性を有する

七、結果を理解するのは原因の観念でありそれ以外の何物でもない

 

定理一 結果は自らを否定し破壊する事が出来ない。むしろ自らを必然的に肯定し固執する。

証明 原因はある結果が存在するように必然的に決定し肯定する力を有し、否定する力を含まない(公理三により)。また結果は原因が有する力を含みかつそれに依存する(公理五により)。故に、結果自身の内には自らを肯定する力を少なからず有し、自らを否定し、破壊する力を有さない。なぜなら、そのような結果を否定し破壊する力は原因の内には何ら存在しないからである(公理三により)。即ち結果は自らを否定し破壊する事が出来ない。むしろ自らを必然的に肯定し固執する。Q・E・D

別の証明 もし結果自身の内に自らを否定し破壊する様な力を有しているとすると、その様な力は原因の力に依存している事になる(公理五より)即ち、あるものを存在する様に決定した原因の内に同時にあるものを存在しない様に決定する力を有している事になる。これは明らかに不条理である。故に結果は自らを否定し破壊する事が出来ない。むしろ自らを必然的に肯定し固執する。Q・E・D

 

 

定理二 存在する様に決定されたものは自己の有を無際限に肯定し固執する目的(衝動)を有して生きる事になる。

証明 前定理より明らかである。即ち生きている事、存在している事がある原因の結果である限り、必然的に自己の有を肯定し、固執する事になる。また自己の有を否定し破壊するようなものは自らの内には何ら含まれない。故に存在する様に決定されたものは自己の有を無際限に肯定し固執する目的(衝動)を有して生きる事になる。Q・E・D

 

定理三 自己の存在を否定し破壊されるような事があるとすれば、自己を存在するように決定した原因や、結果自身の内ではない外部の存在を原因とする事になる。

証明 公理三及び定理一より明らかである。

備考 この事から自殺とは、自己を否定し破壊するように決定した外部のものを原因とする事になる。

 

定理四 結果は自己の力の及ぶ限り、自己の有を否定し破壊するような外部の原因に抵抗する事になる。

証明 自己の有を否定し、破壊するようなものがあるとすれば、自己自身や自己の原因ではない外部のものである(前定理より)。また結果は自己の存在を無際限に肯定し固執しようとし、その力は原因の力に依存している(定理二及び公理五により)。よって、自己の力の及ぶ限り自己の有を肯定し固執するように努め、自己の有を否定し破壊する破壊する外部の力に抵抗する事になる。Q・E・D

備考 この事から、自己の有を否定し破壊する外部の力が自己存続の力を凌駕する時、必然的に存在する事をやめるのである。

 

以上でもって①と②の問に対する答えとする。

①生きている事の目的はなにか?という問いに対し、公理一により、生まれて来たのはある原因の力であり、それ以外の何物でもない。また定理二により、存在するように決定された以上、おのおのは自己の有を無際限に肯定し固執する目的の為に生きる様に決定されるのである。よって自らが存在する事も、自己の存在を肯定し固執する目的を有す事も、ある同じ原因によって決定されたのである。以上でもって①の問に対する答えとする。

 

②いずれ必ず死ぬのに生きる事に意味はあるのか?という問に対し、(定理一より)自己の内に自らを否定し破壊するものを含まない以上、自己が存在する事をやめるのは、外部のものを原因とする事になる(定理三より)。また、自己の力が及ぶ限り、自己の有を否定し破壊するものに必然的に抵抗する事になる(定理四より)。即ち、たとえ我々の外部に自己の有を否定し破壊するような原因が無数に存在し、いずれ死ぬ事になろうとも、我々はある原因によって存在する様に決定された以上、必然的に自己の有を無際限に肯定し固執する事に努めるのである(定理二より)。以上でもって、②の問に対する答えとする。

―不平等は悪か?平等は正義か?

不平等は悪か?平等は正義か?

 

サラリーマン「はー、ちくしょー、イライラするわー部長のやろー」

ソクラテス「どうしたんだい、そんなにイライラして」

サラリーマン「え、あんた誰ですか」

ソクラテス「ボクはソクラテス。それよりどうしたんだい?そんなにイライラして」

サラリーマン「そら、イライラしますよ。。毎日残業、残業の連続。おまけに部長は、仕事を全部俺に押し付けて、部長は定時で帰っているんですよ?なのに毎日頑張っている俺より、部長の給料は俺よりもずっと多く貰っている。こんな不平等が許されてイライラしてずにはおれませんよ。」

ソクラテス「ふーん。なるほどね。つまり君は、自分よりも少ない仕事で自分よりも多くのお金をもらっている部長に嫉妬している訳だね。」

サラリーマン「まぁ、嫉妬というか許せないですね。だってそんなのおかしいじゃないですか!」

ソクラテス「でも君は部長を許せないといっているけど、今日から君が部長の立場になれると言われたら君は喜んでそれを受け入れるのではないかな?つまり君は部長みたいな、少しの仕事で多くの給料をもらえる立場に憧れているけど、現在の自分がそのような立場でない事を悲しんでいるだけではないのかな?」

サラリーマン「そんな事はない!私は不平等であるよりも平等である方が正しい事だと言っているんのです」

ソクラテス「でもちょっとまってくれよ。平等である事が正しいというけど、自然の中には何一つとして平等なものなんてないじゃないか。むしろ不平等であるという限りにおいて平等だろう?平等でない事を嘆くということは、自分が樹木の様に背が高くない事や、ライオンの様に強くない事を嘆く事と同じく愚かだと思わないか。人間同士だってそうだ。人間はそれぞれ持っている素質や能力がそれぞれ違う。何一つとして同じ人間は一人もいないじゃないか。つまり君が平等である事に憧れているのは、単に君よりも優れていると思っている他の者に憧れているだけで、不平等である事に悲しんでいるのは、自分よりも優れていると思っている他の者に嫉妬しているだけなんじゃないのかな?つまり君は、平等である事に憧れているのではなく、自分が他人よりも優れている人間である事に憧れているだけなんじゃないかね?」

サラリーマン「ああ、そうかもしれません、いやそうですよ!私は部長よりも、他の人間よりも優れた人間でありたい。そう思う事の何が悪いっていうんですか!」

ソクラテス「悪いよ。だってね、君がどれだけ頑張った所で、キミより優れた他のものはいくらでもいるし、逆に君よりも劣っているものはいくらでもいる。なぜなら、自然は不平等だから。それは、自然にはありとあらゆるものが存在しているという限りにおいて必然なんだ。君が自然の一部である以上、それはどうする事も出来ない。不可能なんだよ。つまり君は、他の人間よりも優れていたいと願う限り、必然的に自分よりも優れた他の者を観想するたびに悲しみを抱き、自分よりも劣っていると人間を観想するたびに喜びを感じる事になるだろう。つまり、君は悲しみを感じない様に、自分よりも優れている他の者がいなくなればいいと思って、危害を加えるようになったり、逆に、自分よりも劣った人間にしようと努めるだろうね。逆に、自分よりも他人の劣った点を見つけるたびに喜びを感じるから、他人の欠点を誇張したり他人の人間のあら捜しをする事に喜びを感じ、自分の周囲には自分よりも劣っていると思う人間や、自分を優れていると思わせてくれるようなたいこもちやこびへつらう人間を集めるようになるだろうね。結果的に君は自分の周囲の優れていると思う人間に憎しみの感情、即ち嫉妬心を抱き、他人の欠点に喜びを感じるような、自分にとっても他人にとっても害悪しかふりまかないような人間になってしまうだろうね。そして自分は他人よりも優れてると誤った思い込みを抱くようになる。そして、人間は互いにこのような訳であるから、互いに憎み合う事になる。つまり争いが絶えない事になる。」

サラリーマン「じゃあ自分が他人よりも優れた人間でいたいと思うのは悪だっていうんですか。」

ソクラテス「ああ、悪だね。自分が他人と比較して優れている、あるいは劣っていると思う事は悪だ。なぜなら、他人に嫉妬心を抱き、自分よりも優れていると思う人間を憎み、危害を加えるようになる。一方、他人の欠点を喜び、他人の劣った点を歓迎するような人間になる。このような訳だから人間は憎しみ合う事になり、争いが絶えないのだ。」

サラリーマン「じゃあ、どうすればいいんですか。」

ソクラテス「そもそも、僕たちは、何の為に、他人よりも優れていると思いたいのかと言うと、自己の存在を肯定する為なんだよ。つまり、他人よりも優れていると観想する事により自己の存在を肯定しようと努めているんだ。じゃあ、別に、他人と自分を比較する事によって自分の存在を肯定するのではなく、自分自身や自分の能力を見つめる事によって自分を肯定すればいい。つまり他人と比較して自己を肯定するのではなく、過去の自分と比較して現在の自分を肯定すればいい。即ち、現在の自分を肯定できる様に、自分自身の能力を少しでも向上したり発揮出来る様に努力すればいい。それだけだいいんだ。」

 

 

神について―キリスト教徒とソクラテスの対話

神について―キリスト教ソクラテスの対話
 
キリスト教徒「そこの、老人」
ソクラテス「ん?ボクの事かい?」
キリスト教徒「そうです。私は今、日本に来て素晴らしき神の教えを伝えています」
ソクラテス「はー、それはご苦労さん」
キリスト教徒「あなたは、神を信じますか」
ソクラテス「神ねぇ…君はどうなんだい」
キリスト教徒「もちろん、私は神を信じます。」
ソクラテス「そーか、なら君は神を疑っているんだね」
キリスト教徒「は?なぜそうなるのです」
ソクラテス「だって信じるって言葉は、疑っていなければ出てこないじゃないか。ここに掌がある。でも君は『掌がある事を私は信じる』とは言わないだろう?それは掌が存在する事は真実だからだ。在るものは、僕たちが信じようが疑おうが、関係なく在るし、無いものは僕たちが信じようが疑おうが無い。つまり、在るものは在り、無いものは無い。これが真理さ」
キリスト教徒「・・確かにそう、あなたが神をたとえ信じようが信じまいが、神は存在しているのです。」
ソクラテス「うん、ボクもそうおもうよ」
キリスト教徒「そして、神とはこの世界の創造主であられます。あなたは、人間を構成しているアミノ酸をただ衝突させていった所で人間が生じると思いますか?有名な生物学者は言っています。そのような事は不可能であると。偶然に木材を衝突させて家は作れませんよね。即ち、家は我々の意思によって作られた。同じように世界は神の意思によって創られたのです。」
ソクラテス「君は家が創られた原因は人間の意思だと言っているけど、それは妥当な認識なのだろうか。だって意思は外部の原因によって生じるものだよね。家をつくろうという意思が生じたのだって、雨や風や日差しが強いからだとか、外部の者に襲われる危険があるだとか、自分の持ち物を安全に保管したいからだとかいう様々な原因により生じた観念の一つだろう。さらに雨や風や日差しが強いのだって、外部の原因により成り立っている、このようにして無限に続く訳だ。つまり、家が創られた原因が人間の意思だと言うのはあまりに横暴な考えだと思うけどね。だってそれは家が創られた原因の極一部にすぎないじゃないか。同じ様に神が世界を創ろうという意思を持ったのだって、それ以外にその様な意思を持つに至った様々な原因がなければおかしいじゃないか。つまり神が世界を創ろうという意思によって世界を創ったのだと仮定すれば、神以外の外部の原因により世界は創造されたと言っている事に他ならないじゃないか。つまり、神は世界を創造した真の原因ではなく、神にそのような意思をもたせた他のものが原因だという事になる。つまり、世界は神の意思を原因として創造されたのではない事になるね。」
キリスト教徒「では世界は、たまたま、偶然により生じたとでもいうのですか」
ソクラテス「まさか。世界はこの世界以外のいかなる在り方でも存在する事は出来なかった。なぜなら、ある結果は原因を含み、かつそれに依存するからだ。即ち、ある原因は結果を生じ、さらにその結果は新たな原因となり新たな結果を生む。このようにして無限に進むからだ。我々が偶然とか可能とか言う時、それはただ、我々の認識力の不足に他ならない。世界は原因と結果の秩序により必然的に生じ、それを破る事は不可能であり、人間もまた自然の秩序により必然的に存在する。人間がどのようにして創られたのか原因が分からないからといって、それが偶然だとか、人間が創られない事も可能だったとか、人間が創られたのは神の意思によるものだとか思うのはただ、我々が原因を妥当に認識できていない、我々の認識力の不足に由来するものなのであって、非妥当な認識に他ならない。現在、ボク達が認識出来る事だけで説明する事が出来ないという事は、まだ僕たちが知らない事が原因であるという事だ。だから、僕たちは分からないからといって、偶然だとか、可能とか神の意思とかに逃げるんじゃなくて真実を探究するべきなんだよ。一歩一歩確実にね」

―人生の意味について

―人生の意味について
 
登場人物
太郎
 
太郎「ソクラテスおじさん」
ソクラテス「何だい、太郎クン。」
太郎「人生の意味って何?僕は何の為に生きているの」
ソクラテス「うん、じゃあ今日はそれを一緒に考えてみようか。」
太郎「うん!」
ソクラテス「では太郎クン、人生の意味は何かと君は聞いたけど、そもそも「意味」とは何だい?」
太郎「え、意味の・・意味?うーん、そういえば確かに意味って何の事だろう・・?」
ソクラテス「例えば、君が「リンゴ」という言葉の意味を聞かれたらなんて答える」
太郎「えーと、赤くて丸くて美味しい果物の事です。」
ソクラテス「そうだね。じゃあ包丁でリンゴをうさぎさんの形ににする事の意味は?」
太郎「それは、食事を楽しむ為です。」
ソクラテス「つまり、意味といっても2通りの使いかたがある訳だね。1つは言葉の意味。つまりその言葉は何を表現しているのか?もう一つは目的。何の目的の為にするのか?という事を知りたいときに使う場合。さてでは、太郎クンが初めに聞いた「人生の意味」の意味はどっちの方かな?」
太郎「うーん。どっちもかな。つまり僕が知りたいのは人生という言葉の意味と、人生の目的の2つを知りたいんだよ!」
ソクラテス「うん、知りたいという欲望は人間の本質だから、知りたがる事は実に素晴らしい事だとも!ではまず、人生という言葉の意味から考えてみよう。人生という言葉は何を表現しているかな?」
太郎「えーと、人が生きると書いて人生だから、人が生きている事を人生という言葉は表現していると思います。」
ソクラテス「そうだね。つまり逆に言えば、死んでいたら人生とは言えないよね。つまり人生とは死んでいないという事も同時に表現している訳だ」
太郎「そうですね。」
ソクラテス「さて、では人間は遅かれ早かれ必ず死ぬ。これは正しいかね。」
太郎「はい、正しいです。」
ソクラテス「つまり、人生とは人が生きている事を表現している。そして生きているとは死んでいないという事でもある訳だ。そしてボクたちが必ず死ぬという事も真実である訳だ。」
太郎「そうですね。」
ソクラテス「さてここで人生の目的について考えてみようか。太郎クン、君は何の目的の為に人は生きていると思う?」
太郎「うーん、やっぱり生きる為じゃないかなー?」
ソクラテス「そうか、あれ?でもおかしいと思わないか太郎クン。先ほど、僕たちは生きているものは必ず死ぬものである事に同意したね。つまり、生きる事の目的が死なない為なんて矛盾しているじゃないか。」
太郎「あれ、ほんとだ。。じゃあ僕たちは毎日何の為に生きているの?」
ソクラテス「そう、ここに来て初めて僕たちは真に生きる事の意味について疑問に思うわけだね。生きる事が生きる事の目的でないなら、生きる事の目的はなんだろうとね。」
太郎「うーん、何だろう・・・?」
ソクラテス「太郎クン。所でボクは意味の意味について問うた時に、包丁でりんごをうさぎさんの形にする意味について君はなんと答えたか覚えているかい」
太郎「うん、楽しむ為と答えました」
ソクラテス「つまり、包丁でリンゴをうさぎさんの形にするのは生きる為ではない。」
太郎「そうです。」
ソクラテス「そして生きる事も生きる事が目的ではない」
太郎「そうですね。」
ソクラテス「では、何の為かな」
太郎「楽しむ・・為?」
ソクラテス「そうだとも!実に素晴らしいね君は。あらゆる個物は自己の存在を思う存分楽しみ、自己の存在に満足する為に存在しているんだよ。あの大空を飛び回るあの鳥だって、そこの水の中を泳ぎ回る魚だって、あっちの太陽をその身に浴びて青々と茂らせた葉を揺らすあの木々だって、自己が有す能力を存分に発揮して生きるで自己の存在に満足し、自己の存在を楽しんでいる。そして楽しむとは善く生きるという事でもあるんだ。」
太郎「楽しむ事が善く生きる事になるってどういう事?」
ソクラテス「いいかい、僕たちにとっての善が、必ずしも他のものにとってのも善とは限らないよね。例えば僕たちにとって水中で生活するよりも地上で生活する方が善いけど、魚にとって、地上で生活しようとする事はかえって悪になる。」
太郎「そうですね。」
ソクラテス「人間だってそうだ。そばが好きな人にとってそばを食べる事は善だけど、そばを食べるとアレルギーを起こす人にとってはそばを食べる事は悪になる」
太郎「そうですね」
ソクラテス「つまり、僕たちが善と呼んでいるものは、自己が認識した限りにおける喜びの感情に他ならないじゃないか」
太郎「あーなるほど。自分が喜んでいる事を自分が認識したとき、これは善だと判断するのかー。じゃあ悪は?」
ソクラテス「悪は、自己が認識した限りにおける悲しみの感情に他ならない。」
太郎「つまり、自分が悲しんでいると認識したから、これは悪だと判断する。。」
ソクラテス「そう、だから、あるものを与えて喜ぶものもいれば悲しむ人もいる。なぜなら人は十人十色で、誰一人として同じ人間はいないからだ。つまり、自己の本性に適したものと敵さないものがある。そしてそれは人それぞれ違う。だからある人にとって善いものが別の人にとっては悪という事は容易に考えられる。つまり、自己の本性に適したものがそのものにとっての善であるという事になる。なぜなら、自己の本性に適したものは、自己の本性をより発揮したり向上させる事が出来るからだ。あらゆる個物は自己の本性を十分に発揮する事で喜びを感じる。つまり自己の本性を発揮したり向上させる事はそのものに喜びの感情を生じさせる。その喜びの感情を自己が認識することにより、これは善だと判断する。あるいは、自己の本性が阻害や抑制させられる事は悲しみの感情を生じさせる。その悲しみの感情を自己が認識する事により、これは悪だと判断する。」
太郎「なるほど。つまり、僕たちの善悪の認識は自己の喜びと悲しみの感情に依存している。そして喜びと悲しみの感情は自己の本性に依存しているという事ですね。」
ソクラテス「泳ぐという本性を有す魚にとって、地上で生活する事は、魚の本性をかえって阻害し抑制するからね。そしてそれは魚にとって悲しみの感情を抱く事になる。」
太郎「魚も感情を抱くの?」
ソクラテス「もちろん僕たちが抱く、悲しみの感情とは質が異なるだろうけど、他の生物に感情が存在しないという事はまずありえない。もちろん高等生物になる程、感情はより豊かになっているとは思うけどね。身体の構造がより複雑になる事と比例する様に。」
太郎「ロボットも複雑になれば、人間の様な感情を抱く事になる?」
ソクラテス「人間が一度だって植物や微生物を作りだした事があるかい?植物や微生物のように人間よりはるかに複雑でないものでさえ作れないんだから、人間の様に複雑極まりないものを人間が創る事は出来ないよ。だから人間のような感情を抱くものを人間が創ることはまず不可能だろうね。」
太郎「ふーん。そっかー」
ソクラテス「話が少しそれたね。さて、じゃあここまでで、僕たちが善や悪と判断するものは、自己が認識した限りにおける喜びや悲しみの感情である事が分かったね。」
太郎「うん。」
ソクラテス「そして喜びは、自己の本性が向上ないし、発揮される事で生じる感情である事が分かったね。」
太郎「自己の本性って具体的に何の事でしたっけ?」
ソクラテス「例えば魚だったら泳ぐ事だし、鳥だったら飛ぶ事だし、人間だったら考えたり、知る事だったり創造する事だったり、つまりそれぞれの個物が有す能力の事だね。」
太郎「なるほど。自分の能力に適したものや自分の能力を発揮したり高めたりするものは喜びの感情を生じさせる。それをボクは認識して善と判断する」
ソクラテス「そうだ。さて、初めに僕たちは生きる者は必ず死ぬ事に同意した。だから生きるという目的の為に生きる事は不条理である事に同意した」
太郎「そうです。矛盾しているから、生きる事の目的はそれ以外の目的でなければならないのでした」
ソクラテス「そして、太郎クンは生きる事の目的は楽しむ為だと答えてくれた」
太郎「はい。ソクラテスおじさんはそれを、自己の存在に満足する事だと補足してくれました。」
ソクラテス「そうだとも。あらゆる個物は、鳥だって魚だって植物だって自己の本性や能力を存分に発揮している限り、喜びを感じ、自己の存在に満足する。自己の喜びの感情を認識する限りにおいてそれを善と判断する。つまりそれが善く生きるという事になる。つまり、、、太郎クンはもう分かったかな?生きる事の意味が。」
太郎「はい。僕たちは自己の能力を存分に発揮したり向上させたりして存在する事に喜びを感じたり楽しんだりする、つまり自己の存在に満足する為に生きているんですね。それを僕たちは善と判断する。つまり僕たちはただ生きる為に生きるのではなく、善く生きる為に生きているんだ!」
ソクラテス「そうだとも!太郎クン、君は実に素晴らしいよ。ボクにとってはこうして君と対話する事がボクの認識力を発揮したり向上させたりする事になる。つまり僕は喜びを感じ、僕にとって君とこうして対話する事は善く生きる事になるんだ。また君とこうして対話する事をお願い出来るだろうか。」
太郎「もちろん!」
ソクラテス「ありがとう。太郎クン!それではまた!」

―意思は行動の原因ではない。自由な意思はない。

―意思は行動の原因ではない。自由な意思はない。
 
「私たちは選択する自由な意思がある。
そして自由な意思を使って決めたのだから、決めた人に責任がある。
だから、責任をとりなさい。」
 
はい、今の社会では、もう耳にタコが出来るくらいどこでも言われている内容ですね(笑)、本当にこれは妥当な認識なのでしょうか。
私たちの精神が、必要としているのは何よりも真実を知る事、妥当な認識を有する事です。
あえて言いますが、理性にとって、真理ないし、妥当な認識を有する事以外に価値のあるものは何一つとして存在しないのです。
 
今日の社会では人々は、意思の自由さと意思の力に対して、皆が盲目的な信仰をしています。
誰もそれを疑おうともしていません。
ですが、我々の精神は、妥当な認識を欲している、普遍的な認識を欲しています。
ですから、それが本当に妥当な認識なのか、考えてみましょう。
 
今日は、太郎君とソクラテスさんに登場して頂きましょう。
 
太郎君「はー、ボクはどうしてこんなにダメなんだろう」
ソクラテス「どうしたんだい太郎君、そんなに落ち込んで」
太郎君「あ、ソクラテスおじさん。いや、ボクはダメだなって思って」
ソクラテス「どうしてダメなんだい?」
太郎君「ボクはまた今日のテストの点数が0点だったんだ。またお母さんに怒られるよ」
ソクラテス「どうして、テストがうまく出来なかったんだい」
太郎君「僕は、勉強をしようと思っても、結局友達と遊んだり、ゲームをしたりしてしまって、全然勉強が手につかないんだ」
ソクラテス「それはどうして?」
太郎君「僕の意思が弱いからさ。だから、すぐに別の事をしちゃうんだ。お母さんもいつも言ってる。太郎は意思が弱いんだから、もっと強い意思を持ちなさいって。」
ソクラテス「それは、妥当な認識なのかな。君が勉強が出来ない原因は、本当に君の意思が弱いからなのかい。そもそも、君の行動を決定させているのは、君の意思なのかい?」
太郎君「え、そうじゃないの?」
ソクラテス「仮に君の行動を決定させているのが意思だとすると、君が友達と遊んだり、ゲームをしたりするのだって、君の意思という事になる。さて君は、遊んだりゲームしたりする為の強い意思を持っている、でもそう言われてなんか違和感を感じないかい?」
太郎君「うん。僕が友達と遊んだり、ゲームしたりするのは、楽しいからだし、自然とそうなってしまう事で、特に意思を使っているという感じはしないよ」
ソクラテス「そうだとも、太郎クン。君は素晴らしい回答をしてくれたね。つまり、人にある事を為すように決定しているのは、衝動だとか欲望であって、決して意思なんかではないんだ。つまり、太郎君に遊びたい、ゲームしたいという衝動や欲望が生じたから、太郎君は、遊びに行った。あるいは、勉強をしたくないという衝動や欲望が生じた。だから勉強をしなかった。それだけの事で、意思が太郎君の行動を決定している訳ではないんだよ。」
太郎君「じゃあ意思って何なんですか」
ソクラテス「よく聞いてくれたとも!結論から言うと『意思とは経験や記憶に基づく、予測された未来の観念に他ならない』。つまり、まず太郎君に友達と遊びたいという衝動が生じる。その衝動は君の体に何らかの変化をきたし、君は自分の体の変化を認識する。君は自分の衝動を認識する事によって自分の欲望に気付く。ボクは遊びたいという欲望をもっているんだと。その後、君は過去の経験や記憶に基づいて、自分が遊んでいる未来の事を観想するだろう。その観想が「意思」と呼ばれるものだ。つまり、意思と呼ばれるものは「予測された未来の観念」に他ならず、衝動ないし、欲望の後に生じる結果であって、人間の行動を決定させているのは、衝動や欲望であって、「予測された未来の観念」、つまり意思ではない。僕たちはどんなに未来の観念を抱いても、それは僕たちの行動を決定する要因にはならない。なぜなら、僕たちにある事を為すように決定しているのは衝動や欲望なんだから。」
太郎君「じゃあ僕が勉強が出来ないのは、ボクに弱い意思があるからじゃない・・?」
ソクラテス「そうとも!太郎君が勉強をしないのは、太郎君に勉強をしたいという衝動ないし欲望が生じないからであって、未来の観念が君の行動を決定させている訳ではない。」
太郎君「じゃあ、どうしたらボクに勉強しようとする衝動や欲望が生じるの」
ソクラテス「そもそも衝動だとか欲望がなぜ生じるのか考えてみようか。衝動や欲望が生じるのは、その背後に無限の原因が潜んでいると思わないかい。つまりある一つの原因がその衝動や欲望を生じさせている訳ではないんだ。例えば太郎君が友達と遊ぼうとする衝動や欲望が生じるのは、太郎君の体調が良いとか、その友達と仲がいいとか、今日は晴れているからだとか、そもそも友達が生きているからだとか、宇宙が存在しているからだとか、実質無限ともいえる原因により、君の友達と遊びたいという衝動や欲望は生じている訳だ。つまり、僕たちは自由に衝動や欲望を抱く事は出来ない。僕たちにある事を成すように決定しているのが衝動や欲望である以上、僕たちは自由に行動するなんて事は不可能であって、必ず、背後にある無限の原因の上に僕たちの行動は成立しているんだ。まず第一に、僕たちは自由に行動できるという観念を抱いている事が間違いなんだよ。だから、太郎君は自由に行動できるという非妥当な認識を有しているから、勉強が出来ない事、つまり自分の自由に行動出来ない事を悲しんでいる。でもそれは愚かな事だ。なぜなら、僕たちは背後の無限の原因によって生じる衝動ないし欲望によりある事をなすように決定されているんだからね。」
太郎「じゃあ、僕は勉強をしなくてもいいんですか」
ソクラテス「しなくてもいいというか、したいという衝動や欲望が生じないから出来ないんだ。僕たちは自由に衝動や欲望を有す事は出来ないんだから、したいという衝動や欲望が生じるまで待っていればいいさ。ましてや勉強が出来ない事で悲しんだり自分を責めたりする必要なんてまったくないんだ。今は君は友達と遊びたい、ゲームしたいという衝動や欲望によって、友達と遊んだりゲームしている。それは妥当な事だ。自然な事だ。人間の抱く、衝動や欲望は人間の活動能力を発揮する事に向けられている。そして、自己の活動能力を発揮している限り、人間は幸福と感じる。太郎君は、自分がしたいとおもう事を無理やり押さえつけるのではなくて、存分に行い、自分の能力を存分に発揮すればいい。それが個物にとって何よりの幸福なんだから。」
太郎「でも、自分がしたい事をなんでもすればいいんだったら、僕は自分が嫌いな人をいじめたり、他人のものを奪ってもいいって事?」
ソクラテス「いいかい、僕たちの有する精神は何よりも妥当な認識を求めている。普遍的な認識を求めている。僕たちは先ほど、自己の活動能力を存分に発揮する事が何よりも幸福な事だと言った。では、他人の活動能力を阻害する事は、自己の活動能力を向上させる事に本当になるのだろうか?」
太郎「うーん。でも自分の嫌いな人はいない方がいいと思う」
ソクラテス「でも、嫌いな人の活動を阻害させたら、その人は、自分の活動をもっと阻害する様になるだろうね。そうするとお互い不幸となる事は容易に想像できるね。逆に、他の人間と協力し合えば、仮に2人でやるとすれば、同じものを得るのに時間と労力を1/2に減らす事が出来るね。単純計算だと100人で1/100に、1億人で1/100000000にする事が出来る。
つまり、人間にとって人間程、有益な存在はこの世界にいないんだよ。逆に他人の活動を阻害する事は、自己の活動を結果的に阻害する事になる。これが妥当な認識だと思うけどね。このような妥当な認識を有してもまだ、君は君の嫌いな人間の活動を阻害したいと思うかな?それによって君自身の活動が阻害され不幸になるとしても」
太郎「いや、もう思わないよ。」
ソクラテス「素晴らしいよまったく君は!これからも妥当な認識を有す事に努めてくれたまえ。それが君の幸福につながるんだから」
太郎「わかりました。それじゃあ、友達と遊んできます!」
ソクラテス「はい、自己の能力を存分に発揮し、楽しんできたまえ」