―おもしろさと笑いについて
―おもしろさと笑いについて
公理一 世界には多くのものが存在する。
公理二 個物は世界の多くのものの中の一部である。
公理三 おのおののものは自己の有を肯定し固執する事に努める。
定理一 身体、及び精神がより多くのものに反応し知覚する事が出来るつれ、個物にとってより有益となる。
証明 我々の外部には、自己に有益なもの、有害なもの、どちらでもないものが多く存在する(公理一より)。個物は自己の有を肯定し固執する事に努める(公理三より)。故に、外部のより多くのものに身体が反応し、精神が知覚する事が出来るにつれ、自己に有益なもの、有害なもの、そのどちらでもないものをより多く認識する事が出来るようになる。故に身体及び精神がより多くのものに反応し知覚する事が出来るにつれ個物にとってより有益となる。Q・E・D
定理二 身体、及び精神をより多くの仕方で刺激するようなものは個物にとってより有益である。
証明 前定理より明らかである。Q・E・D
系:反対に、身体及び精神を同一の仕方で刺激するものは個物にとって有害である。
証明 身体、及び精神が同一の仕方で同一の刺激のみに反応している限り、それ意外の外部の多くのものを知覚し反応する事が困難となる。故にその様な、身体及び精神を同一の仕方で何度も刺激する様なものは個物にとって有害であり、悲しみを感ずる。その様な同一の刺激の観念を伴った悲しみの感情を『退屈』と呼ぶ。
定理三 より多くの刺激に変状し知覚する事が出来るような身体及び精神は個物にとってより有益である。
証明 定理一より明らかである。Q・E・D
備考 人間の身体及び精神はノミの身体及び精神よりも、より多くの外部の刺激に変化し知覚する事が出来る点において有益である。犬の嗅覚は、より多くの空気中の微小な物質に対して身体を変状させ、知覚する事が出来るという点において、人間の嗅覚よりも有益である。
系 わずかな刺激にのみしか反応する事が出来ないような身体、及び精神は個物にとって有害である。
証明 前定理より明らかである。そのような身体及び精神は、外部に存在する多くの有益なもの、有害なもの、そのどちらでもないものに対し、反応し知覚する事が出来ない。即ち、自己にとって有害である。
備考 このことから、身体及び精神をある刺激のみに虜にさせるようなもの、あるいはそのような単一の刺激のみに反応し知覚する、即ち熱中する事は自己にとって有害である。故に、金儲けの事ばかりに囚われる事や、情婦の事ばかり考えたり、酒におぼれる事、名誉の事ばかりを考える事、薬物の依存症になる事が自己にとってなぜ有害であるかという事が理解出来る。
定理四 身体及び精神がより多くの刺激により多くの仕方で変状するにつれ喜びを感じる事になる。
証明 身体及び精神がより多くの刺激に反応し知覚するにつれ、より多くの外部のものを認識し、それらに接近し、摂取し、逃避し、破壊する事が可能となる。(定理一より)即ち自己にとってより有益となり喜びを感ずる事になる。
定理五 新たな観念の連結が生じるたびに喜びの感情が生ずる事になる。
証明 身体及び、精神がより多くの刺激により多くの仕方で変状し知覚するにつれ、より多くのものを認識する事が出来、精神の内に観念の新たな連結が生ずる事になる。(定理一より)またその様な新たな観念の連結が生じるたびに喜びの感情が生じる事になる。(前定理より)
備考 このような新たな観念の連結に伴う喜びの感情を『面白い』という。故により多くの新たな観念が連結するほど、面白さは増大する。
定理六 精神は妥当な認識を肯定し、非妥当な誤った認識を否定する。
証明 世界には自己に有益なもの有害なものどちらでもないものが多く存在する(公理一より)故に、存在するものを妥当に認識する事は自己にとって有益であり、存在するものを非妥当に認識し、誤った認識を有する事は自己にとって有害である。故に精神は妥当な認識を肯定し、非妥当な誤った認識を否定する。Q・E・D
定理七 意味とは、有限の語の関係性において成り立つ。
証明 言葉の構成要素である語は有限である。世界の内部は無限に多くの事象が存在する。故に有限の語を組み合わせる事により無限に多くの事象を言葉によって説明する。従って語には単一の意味は存在せず、使用される状況によって語は様々に組み合わさり様々な意味を持つ事になる。故に語には単一の意味は存在せず、語の組み合わせにより様々に変化する。即ち意味とは、有限の語の関係性において成り立つ。Q・E・D
定理八 無意味とは、誤った語の関係性である。即ちある状況においてその状況にそぐわない語の関係性である
証明 同一の語が、その語が使用される状況によって、あるいは他の語との組み合わせにより異なる意味を持つ事が出来る(前定理より)。故に同一の語であっても、おのおのの状況によって、他の語との組み合わせ(関係性)はそれぞれ異なる。(同じ『甘い』という語が、状況によって『人に』という語と結合したり、『ケーキが』がという語に結合したりする事により『甘い』という語の意味が変化する。)故に、ある状況にそぐわない様な語の組み合わせは、誤った語の関係性であり、その状況においては意味として成立しない、即ち無意味である。
定理九 矛盾は無意味である
証明 矛盾とはAが存在しかつAが存在しないという状況である。それ自体で明らかなようにこの様なものは理解する事も考える事も出来ない。即ち、このような語の組み合わせ(関係性)はいかなる状況も説明しない。即ちいかなる状況においても意味として成立しない。即ち無意味である。
定理十 無意味である語の関係性を精神は否定する。
証明 ある状況にそぐわない様な語の組み合わせや、ある状況を何ら説明しない語の組み合わせは、無意味である。(定理八及び九より)無意味とは誤った語の関係性である(定理八より)精神は誤りであると判断するものを否定し、妥当と判断するものを肯定する(定理六より)。故に無意味である語の関係性を精神は否定する。Q・E・D
定理十一 新たに連結された観念が無意味であると判断された時、その様な観念は喜びの感情と共に否定される事になる。
証明 身体、及び精神がより多くの刺激に対して反応し認識する事により、精神の内に新たな観念の連結が生ずる事になる。(定理一より)。またその様な新たな観念の連結は喜びを伴う(定理五より)また、その様に生じた新たな観念の連結ないし組み合わせが、その状況にそぐわない語の関係性や、その状況を何ら説明しない矛盾した関係性の場合、無意味と判断する事になる(定理八及び九より)その様な無意味な観念の連結を精神は否定しする(定理十より)従って、新たに連結された観念が無意味であると判断された時、その様な観念は喜びの感情と共に否定される事になる。Q・E・D
備考 このような新たな観念の連結に伴う喜びの感情(面白さ)と共に、新たに生じた観念が無意味であると判断され否定される事に伴う精神および身体の変容は『笑い』と呼ばれる。この事から、より多くの刺激に身体及び精神が反応し、新たな観念の連結が生ずる事により面白さは生ずるが、そのように生じた新たな観念の連結を無意味であると否定しなければ、笑いは生じない。一方、笑いは、新たな観念の連結が生じ、かつその観念が否定される事により初めて生ずる為、必然的に面白いという感情を伴う事になる。また、単に既存の観念を否定する場合は、笑いは生じえない。(下図参照)
生きる事の意味についての小論
はじめに
必ず一生の内に誰しも一度は考える事、それは「生きる事に意味はあるのか?」という問いであろう。
しかし、この問いは正確には次の3つに分類される事になる。
①生きている事の目的はなにか?
②いずれ必ず死ぬのに生きる事に意味はあるのか?
③生きているはなぜか?
③について理解すれば、必然的に①と②についても理解したことになる。
そもそも自分が生きている=存在しているという事はある結果である。故に必ず原因がある。つまり、原因と結果の関係性を理解する必要がある。
<公理>
一、いかなる結果もある原因なしには在る事も考える事も出来ない。
二、原因は結果に先立つ
三、原因はある結果が存在する様に必然的に決定し肯定するがこれを否定しない。
四、結果は原因の認識を含みかつそれに依存する。
五、結果の力は原因の力を含みかつそれに依存する
六、原因は結果よりも大なる力能ないし完全性を有する
七、結果を理解するのは原因の観念でありそれ以外の何物でもない
定理一 結果は自らを否定し破壊する事が出来ない。むしろ自らを必然的に肯定し固執する。
証明 原因はある結果が存在するように必然的に決定し肯定する力を有し、否定する力を含まない(公理三により)。また結果は原因が有する力を含みかつそれに依存する(公理五により)。故に、結果自身の内には自らを肯定する力を少なからず有し、自らを否定し、破壊する力を有さない。なぜなら、そのような結果を否定し破壊する力は原因の内には何ら存在しないからである(公理三により)。即ち結果は自らを否定し破壊する事が出来ない。むしろ自らを必然的に肯定し固執する。Q・E・D
別の証明 もし結果自身の内に自らを否定し破壊する様な力を有しているとすると、その様な力は原因の力に依存している事になる(公理五より)即ち、あるものを存在する様に決定した原因の内に同時にあるものを存在しない様に決定する力を有している事になる。これは明らかに不条理である。故に結果は自らを否定し破壊する事が出来ない。むしろ自らを必然的に肯定し固執する。Q・E・D
定理二 存在する様に決定されたものは自己の有を無際限に肯定し固執する目的(衝動)を有して生きる事になる。
証明 前定理より明らかである。即ち生きている事、存在している事がある原因の結果である限り、必然的に自己の有を肯定し、固執する事になる。また自己の有を否定し破壊するようなものは自らの内には何ら含まれない。故に存在する様に決定されたものは自己の有を無際限に肯定し固執する目的(衝動)を有して生きる事になる。Q・E・D
定理三 自己の存在を否定し破壊されるような事があるとすれば、自己を存在するように決定した原因や、結果自身の内ではない外部の存在を原因とする事になる。
証明 公理三及び定理一より明らかである。
備考 この事から自殺とは、自己を否定し破壊するように決定した外部のものを原因とする事になる。
定理四 結果は自己の力の及ぶ限り、自己の有を否定し破壊するような外部の原因に抵抗する事になる。
証明 自己の有を否定し、破壊するようなものがあるとすれば、自己自身や自己の原因ではない外部のものである(前定理より)。また結果は自己の存在を無際限に肯定し固執しようとし、その力は原因の力に依存している(定理二及び公理五により)。よって、自己の力の及ぶ限り自己の有を肯定し固執するように努め、自己の有を否定し破壊する破壊する外部の力に抵抗する事になる。Q・E・D
備考 この事から、自己の有を否定し破壊する外部の力が自己存続の力を凌駕する時、必然的に存在する事をやめるのである。
以上でもって①と②の問に対する答えとする。
①生きている事の目的はなにか?という問いに対し、公理一により、生まれて来たのはある原因の力であり、それ以外の何物でもない。また定理二により、存在するように決定された以上、おのおのは自己の有を無際限に肯定し固執する目的の為に生きる様に決定されるのである。よって自らが存在する事も、自己の存在を肯定し固執する目的を有す事も、ある同じ原因によって決定されたのである。以上でもって①の問に対する答えとする。
②いずれ必ず死ぬのに生きる事に意味はあるのか?という問に対し、(定理一より)自己の内に自らを否定し破壊するものを含まない以上、自己が存在する事をやめるのは、外部のものを原因とする事になる(定理三より)。また、自己の力が及ぶ限り、自己の有を否定し破壊するものに必然的に抵抗する事になる(定理四より)。即ち、たとえ我々の外部に自己の有を否定し破壊するような原因が無数に存在し、いずれ死ぬ事になろうとも、我々はある原因によって存在する様に決定された以上、必然的に自己の有を無際限に肯定し固執する事に努めるのである(定理二より)。以上でもって、②の問に対する答えとする。
―不平等は悪か?平等は正義か?
―不平等は悪か?平等は正義か?
サラリーマン「はー、ちくしょー、イライラするわー部長のやろー」
ソクラテス「どうしたんだい、そんなにイライラして」
サラリーマン「え、あんた誰ですか」
ソクラテス「ボクはソクラテス。それよりどうしたんだい?そんなにイライラして」
サラリーマン「そら、イライラしますよ。。毎日残業、残業の連続。おまけに部長は、仕事を全部俺に押し付けて、部長は定時で帰っているんですよ?なのに毎日頑張っている俺より、部長の給料は俺よりもずっと多く貰っている。こんな不平等が許されてイライラしてずにはおれませんよ。」
ソクラテス「ふーん。なるほどね。つまり君は、自分よりも少ない仕事で自分よりも多くのお金をもらっている部長に嫉妬している訳だね。」
サラリーマン「まぁ、嫉妬というか許せないですね。だってそんなのおかしいじゃないですか!」
ソクラテス「でも君は部長を許せないといっているけど、今日から君が部長の立場になれると言われたら君は喜んでそれを受け入れるのではないかな?つまり君は部長みたいな、少しの仕事で多くの給料をもらえる立場に憧れているけど、現在の自分がそのような立場でない事を悲しんでいるだけではないのかな?」
サラリーマン「そんな事はない!私は不平等であるよりも平等である方が正しい事だと言っているんのです」
ソクラテス「でもちょっとまってくれよ。平等である事が正しいというけど、自然の中には何一つとして平等なものなんてないじゃないか。むしろ不平等であるという限りにおいて平等だろう?平等でない事を嘆くということは、自分が樹木の様に背が高くない事や、ライオンの様に強くない事を嘆く事と同じく愚かだと思わないか。人間同士だってそうだ。人間はそれぞれ持っている素質や能力がそれぞれ違う。何一つとして同じ人間は一人もいないじゃないか。つまり君が平等である事に憧れているのは、単に君よりも優れていると思っている他の者に憧れているだけで、不平等である事に悲しんでいるのは、自分よりも優れていると思っている他の者に嫉妬しているだけなんじゃないのかな?つまり君は、平等である事に憧れているのではなく、自分が他人よりも優れている人間である事に憧れているだけなんじゃないかね?」
サラリーマン「ああ、そうかもしれません、いやそうですよ!私は部長よりも、他の人間よりも優れた人間でありたい。そう思う事の何が悪いっていうんですか!」
ソクラテス「悪いよ。だってね、君がどれだけ頑張った所で、キミより優れた他のものはいくらでもいるし、逆に君よりも劣っているものはいくらでもいる。なぜなら、自然は不平等だから。それは、自然にはありとあらゆるものが存在しているという限りにおいて必然なんだ。君が自然の一部である以上、それはどうする事も出来ない。不可能なんだよ。つまり君は、他の人間よりも優れていたいと願う限り、必然的に自分よりも優れた他の者を観想するたびに悲しみを抱き、自分よりも劣っていると人間を観想するたびに喜びを感じる事になるだろう。つまり、君は悲しみを感じない様に、自分よりも優れている他の者がいなくなればいいと思って、危害を加えるようになったり、逆に、自分よりも劣った人間にしようと努めるだろうね。逆に、自分よりも他人の劣った点を見つけるたびに喜びを感じるから、他人の欠点を誇張したり他人の人間のあら捜しをする事に喜びを感じ、自分の周囲には自分よりも劣っていると思う人間や、自分を優れていると思わせてくれるようなたいこもちやこびへつらう人間を集めるようになるだろうね。結果的に君は自分の周囲の優れていると思う人間に憎しみの感情、即ち嫉妬心を抱き、他人の欠点に喜びを感じるような、自分にとっても他人にとっても害悪しかふりまかないような人間になってしまうだろうね。そして自分は他人よりも優れてると誤った思い込みを抱くようになる。そして、人間は互いにこのような訳であるから、互いに憎み合う事になる。つまり争いが絶えない事になる。」
サラリーマン「じゃあ自分が他人よりも優れた人間でいたいと思うのは悪だっていうんですか。」
ソクラテス「ああ、悪だね。自分が他人と比較して優れている、あるいは劣っていると思う事は悪だ。なぜなら、他人に嫉妬心を抱き、自分よりも優れていると思う人間を憎み、危害を加えるようになる。一方、他人の欠点を喜び、他人の劣った点を歓迎するような人間になる。このような訳だから人間は憎しみ合う事になり、争いが絶えないのだ。」
サラリーマン「じゃあ、どうすればいいんですか。」
ソクラテス「そもそも、僕たちは、何の為に、他人よりも優れていると思いたいのかと言うと、自己の存在を肯定する為なんだよ。つまり、他人よりも優れていると観想する事により自己の存在を肯定しようと努めているんだ。じゃあ、別に、他人と自分を比較する事によって自分の存在を肯定するのではなく、自分自身や自分の能力を見つめる事によって自分を肯定すればいい。つまり他人と比較して自己を肯定するのではなく、過去の自分と比較して現在の自分を肯定すればいい。即ち、現在の自分を肯定できる様に、自分自身の能力を少しでも向上したり発揮出来る様に努力すればいい。それだけだいいんだ。」
ブログ移行しました
yahooブログからの移行となります。
再び、「存在と何か」という事について考察していきます。