―存在とは何か

真理への飽くなき追究

―宇宙のあらゆる現象の根底に働いているのは、善なる理念である

―宇宙のあらゆる現象の根底に働いているのは、善なる理念である
 
例として宇宙の中に存在する人間について考察してみると、いかなる人間であろうとも、善いと思った事しか行わない事が分かる。
善人と呼ばれるものは、個人を超えて広く普遍的な善を目指し、
悪人と呼ばれるものでさえ、狭く個人的な善を目指しているのであり、
いかなる人間であろうとも、自らが善いと思った事しか行動しない。
いわんや、人間がそうなのなら、人間を生み出した宇宙が、そうでないというのは、普通に考えておかしい。
人間の善なる意思を生み出したのは宇宙だ。
自分が知らないものを作れる事などあるだろうか。いや無い。
自分が作ったものなら、作られたものについて自分が知っていなければ作りようがないではないか。宇宙は自らのが有す善なる意思を模倣して、人間の善なる意思を作ったと考えるのが常識的ではないだろうか。
そして天体や地球、生命、人間は今の物質科学が述べるように、ただ丸いボール(素粒子)がビリヤード玉のように、何度も衝突を繰り返していたら、たまたま作られたというのでは決してないという事だ。
例にならって、宇宙より作られた人間を例として考えてみればいい。
「ここにあるイスは、ただ、木材と釘が何度も衝突を繰り返した事により、最も、安定した構造をしているこの状態が最後に自然陶駄によって生き残ったのです。」という説明を聞いてだれが納得するだろうか。
この椅子が偶然このような構造をしたのではない事は誰の目にも明らかだ。
もともと、あるイメージ、理念が先にあり、その理念の実現に向けて、何度も材料自体の加工や、木材や釘の結合状態を調整する事により、イメージに近づけていった結果がこのような構造になったのだ。
イスだけなら、理念(イメージ)と現実のギャップを埋めていき、イメージに近づけていくのは短時間で済むが、家や車、あるいは飛行機となると、より時間が掛かるのは必然。
ましてや、天体や動植物、人間とより複雑な構造になるにつれ、イメージと現実のギャップを埋めるのはより時間が掛かるの言うまでもない。まず、そもそも材料がないので、材料を作り、加工し、結合し・・・想像を絶する労力と時間が掛かる。
人間は宇宙より作られた。人間は宇宙の縮図だ。どうして、作られた者の能力を作った者が有していないなどありえようか。ましてや、作られたものの能力より、作った者の方がより強大な能力を有していると考えるのは当然である。
人間が自己でまかなえるだけの狭い範囲の善を目指すのであれば、人間を生み出した宇宙は、それより、もっと広大で、無限大の範囲の、究極の善なる理念に向けて行動していると考えるのが自然ではないだろうか。究極の善とは即ち究極の愛である。
愛なしに善は行えない。
利己的な善を目指すのであろうとも、自己を愛していなければなるまい。
宇宙は無限大の範囲を包括する究極の愛ゆえに、究極の善を目指す。
その理念の実現の為に万物は生成されていく。
即ち、愛は万物生成の要因であり、目指す所は究極の善である。
そういう意味では、宇宙は自己を愛している故に善を目指していると言える。
宇宙にとって、自己とはつまり全てである。
全てを愛し、全ての善を目指す。
 
イスの形がある木材と釘の結合によってそのような形になっている。
あるものとあるものがある結合によりある形になる。何度やっても同じ。それは必然である。
しかし、その様な形になったのはたまたまではない。
まず根底に理念、思いがあり、そのイメージが在ったからに他ならない。
 
水素が水素原子と水素原子により結合しているのは、電磁気力、重力、核力などによる相互作用力により必然的にそうなる。
しかし、その必然の根底に真の原因、即ち、宇宙の愛、善なる理念が働いている。
それは宇宙の縮図である我々自身について考えてみればすぐに分かる事だ。
なぜならこの世界はみえざるものがみえるものを動かしているのだから。