―存在とは何か

真理への飽くなき追究

―断片集

≪宇宙の根源は真・善・美にして即ち神なり
万物の生成は神の活動力にして即ち愛なり≫
 
 
 
≪ファッションはただの自己満足。つまただのオナニー。誰かの為になる訳でもなく、自分の為になるわけでもなく、ただのむなしい行い。
そして生きる為に生きている者も同様にただオナニーしているにすぎない。
なぜなら生きる者は必ず死ぬ者であるから。
死ぬ者であるのに生きる事を目的とし生きる事はおよそ狂気の沙汰。
真・善・美の追求こそ究極の目的であり、生きる事はその手段に過ぎない。
およそ手段が目的に転倒する事(オナニー化する事)程、愚かな事はあるまい。≫
 
 
 
≪宇宙創成以前には暗闇が在った。無ではない。無は無い故に無なのだから、無であるならば暗闇ですら無いはずだから。暗闇に理性という光が現れる事により、暗闇であった事を知る事となった。理性という光が生じる前は、暗闇であった事も分からなかった。≫
 
 
 
≪世の中全体が、幻想に囚われているというのは本当である
勝手な思い込みに基づく自作自演。同じ観念を持つ者たちの共同体。そこで繰り広げられる壮大な芝居と茶番劇。全ては一夜より少しばかり長い、春の夜の夢の如し。≫
 
 
 
≪脳が意味や思いを作り上げているというは勘違いである。
そこにイスが存在している事と、それを見ている眼球が在る事とは別の事である。
眼球が無くなりイスが見えなくなろうが、イスはそこに存在する。
脳が無くなり、思いや意味が分からなくなろうと、意味や思いはそこに存在する。
脳があるから、思いがあるのではない。順序が逆なのだ。
まず先に光があったから目が創られた。目があったから光が創られたのではない。
まず先に音があったから、耳が創られた。耳があったから音が創られたのではない。
まず先に思いがあったから脳が創られた。脳があったから思いが創られたのではない。
まず先に意味があったから言葉が創られた。言葉があったから意味が創られたのではない。
 
生理学者が言う様に、脳が意識を生み出しているのではない。
脳はあくまで意識が生じる為の必要条件であり十分条件ではない。
ここでいう意識とはつまり、リアルな意識の事だ。
こういう思考実験を想定してみればすぐに分かる。
脳という物質がこの意識を生み出しているのであれば、科学技術を駆使し、自分とまったく同じ脳を複製するとする。神経線維の1本とて寸分違わず同じである。しかし、この脳に電極を刺しても、意識は生じない。物質的な脳が意識を生み出しているというのなら、全く同じ脳を作ったら同じように意識が生じるはずではないか。でも実際は生じない。つまり、脳が意識を生み出しているのではなく、脳ではない、何かがこのリアルな意識を生み出しているのだ。脳は意識を生み出すが、リアルな意識は生み出さない。そしてリアルでない意識など想像の産物にすぎない。他者の意識の様に。≫
 
 
 
≪カント。物自体という幻想に囚われた者。
我々が見ているのは物自体ではなく、物自体の影あるいは幻影というべきものであり、我々は決して物自体を見る事は出来ず、我々が見ているのは全て幻覚のようなものであるという考え。
なぜ、彼はあるものを一つの側面でしか眺める事が出来なかったのか。
自然には物質や精神等、様々な側面があり、一つの側面だけではない様に、なぜ、ものにも様々な側面を認める事ができなかったのか。
なぜ一つの形しか認める事が出来なかったのか。
例えば、ここにイスがある。
我々が認識しているイスの姿と、鳥や犬、コウモリやアリが認識した時のイスは、それぞれ異なるだろう。あるいは今日の私が見ているイスと昨日の私が見ていたイスはまた違って見えているだろう。
しかし、そのどれにおいても、そのように見えている限り、それは真実であり、疑う事の出来ないリアルさがある。
例えば、薬物の摂取によりイスが机のように見えていても、机のように見えているというその時に限り、それは疑う事の出来ぬ真実である。
仮にもし、カントが言う様なイス自体が存在したとして、それが認識できたのであれば、それも、カントが言う様に、イス自体の影、あるいは幻影と化すのではないか。
つまり、イス自体をついに認識したと思ったがつかの間、イス自体でなくなるというジレンマに陥る。
つまり、イス自体は認識出来てはならぬ。仮に認識できるのであればイス自体は存在する事は出来ない、という事になる。
認識される限り存在してはならぬ。認識されない限りにおいて存在する。そんな物ただの虚妄であろう。そんなややこしい事をせずとも、初めから物自体など存在しないとするほうがより美くしいではないか。あるものを認識している限り、その全てにおいてその都度、その認識は正しい。あるものは様々な側面を持つ故に、同じものでも、ある側面とある側面を比ぶれば矛盾する様に見えるが、あるものの側面である限り、そのどちらの認識もやはり正しいのだ。例えば物質は粒子でもあり波でもあるように。≫