―存在とは何か

真理への飽くなき追究

―死とゲーム論

―死とゲーム論
 
我々は日々生活している。では生活とは何か?
生活するとは、生きるという事。死から逃れようとする事。死をとりあえず、今は回避する事といえよう。
では、我々の目的は不死となる事、死なない様になる事か?いや、決してそうではない。
我々が求めているのは不死ではなく、生きる事に熱中する事だ、という事を今回は論じてみようと思う。
 
ある何者かによって構築されたシステムの事を「ゲーム」と名付ける。
テレビゲームは、人間によって構築されたシステムであるが、ゲームをするプレイヤーがゲームに望んでいる事は、ゲームバランス、つまり秩序あるシステムを望んでいる。
いかなるゲームにも勝者、あるいは敗者に分けられ、あるいは、生と死というシステムが導入されている。そして、プレイヤーは、勝者となる事、あるいは生き延びる事を目的として、勝つため、あるいは生き延びる為に、技術、スキル、知恵、ステータスと呼ばれるものを上昇させる。
しかし、実は彼らが真に望んでいる事は、勝者でもなく、不死でもない。ゲームに熱中する事だ。
何をどうしようと、絶対に勝てるゲームや、決して死ぬ事がないゲームを誰がプレイするだろうか?つまらない「クソゲー」と言われるのがオチである。そんなゲーム、誰もプレイしない。
つまり、ゲームのプレイヤーの真の目的は勝者となる事や不死となる事ではなく、勝つための手段を功じる、あるいは生きる手段を功じるというゲームに熱中する事が本当の目的なのである。
勝つ事ではなく、勝つため手段を功じる事に熱中する事、不死ではなく、生き延びる手段を功じる事に熱中する事が、実は彼らの真の目的だという事は、つまりプレイヤーはこのゲームシステムに自らが敗者になる可能性や死ぬ可能性が含まれている事を自ら望んでいるのだ。
そうでなくては、勝ち続ける為の手段を功じる事が出来ない、あるいは生き延び続ける為の手段を功じる事が出来ない。
ゲームのプレイヤーにとって勝つための手段を功じる事が実は目的であり、死なない為の手段を功じる事が実は目的である。そのためにこのゲームに敗者となるシステム、死というシステムは必要不可欠であり、勝者となる事、不死となる事が目的の様に見えて実は、そうではなく、それはゲームをより熱中させる為の手段であり、ゲームをより魅力的、刺激的にするスパイスである。そして良いゲームというのは、熱中させる為のシステムが死や敗者というシステム以外にも、多数導入されているゲームの事である。
まとめると
勝つ事、死なない事、あるいは目的と一般的に呼ばれるもの→ゲームをより熱中してプレイする為の手段。
勝つための手段を功じ続ける事、生き延びる手段を功じ続ける事、つまりとにかく熱中してプレイする事。→真の目的。
 
そしてこの世界も、自然によって構築されたシステムであり、自然によって作られた「ゲーム」であると言える。
人間が作ったゲームは自然のゲームシステムを模倣しているだけであり、オリジナルはこちらである。
つまり、勝者となる事、死なない事、あるいは一般的に「夢」だとか「目標」だとか呼ばれているもの、それはこのゲームに熱中する為の手段である。真の目的は、飽きもせず勝者となる為の手段を功じ続けたり、死なない為の手段を功じ続ける事、つまりゲームに熱中する事である。
勝利や不死は、我々が本当に求めているものではない。何をせずとも、必ず勝利してしまうゲーム、負けるという事が無いゲーム。そんなゲームまったくつまらないものであり、ゲームに熱中するという真の目的を達成する事は出来ない。あるいは、不死となると、生きるという事に熱中する事が出来なくなるだろう。また、不死はゲームバランスの崩壊を引き起こす。あらゆる道徳的なものの基盤となっているものが死である事は誰もが認める事であり、秩序、ゲームバランスが崩壊したゲーム(世界)はつまらなく、誰もプレイしたいと思わなくなるだろう。結果、このゲームをより熱中してプレイする為に、誰もが、敗者や死というシステムを熱望する事となる。
ゲームに熱中する事が真の目的である以上、飽きる事無く手段を功じ続けるという真の目的の為にあらゆる手段が用いられる。その一つが、「夢を持つ」「目標を立てる」という事であり、永遠に達成不可能、あるいは達成困難な「夢」や「目的」程、ゲームに熱中するという真の目的に貢献するので良い。もし万が一、達成されてしまったら、再び新たなかりそめの「夢」や「目標」を再び立て、永遠にゲームに熱中してプレイできるように、ゲームバランス(表向きの目的)が補正される。
死、敗者、欲求、評価、他者、無力、無知、あらゆるシステムが、このゲームに熱中させる為の手段であり、熱中させるのは、このゲームというもの自体にに内在する無意味さを忘れさせて、とにかく、プレイヤーにこのゲームに熱中してプレイさせる為である。ゲームの製作者、あるいは管理者である者の視点から考えると、自らが作成したゲームをプレイさせたいに決まっている。その為に、プレイヤーには、ゲーム自体に内在している無意味さを忘れさせる程に、プレイする事に熱中させなければならない。その為のシステムであり、秩序である。
その為、何もしないと死ぬというシステムを導入する。死というデスペナルティを与える事により、無理矢理でも、プレイヤーにこのゲームに参加させる事を強制する。
この無意味なゲームから脱する事が出来る可能性があるとしたら、このゲームをクリアする事ぐらいであろう。そしてゲームクリアの道は最も困難な道である事は当然なので、最も困難な、「真・善・美」の追求の道以外に、このゲームをクリアして「あがり」になる為の近道は無いように思われる。プラトンは、善のイデアに到達して「あがり」と考えていた。もちろん、このゲームのクリアに「魂」が関係しているのは間違いの無い様に考えられる。そして何もせずに手に入る死は、最も安易な道であり、それ相応のデスペナルティが待ち受けているのは必須であり、この無意味なゲームから脱する道からより遠のいてしまうのはゲームの製作者の視点から考えれば容易に想像が付く事である。

まとめると、本質的にゲームというもの自体に内在する無意味さを覆い隠す為に、ゲームの中に無限の意味を作り上げている。全ては、プレイヤーにゲームというもの自体に内在する無意味さを忘れさせる程に、このゲームを熱中してプレイさせる為に。