―存在とは何か

真理への飽くなき追究

―無意味さと笑いについて

―無意味さと笑いについて
 
笑いが如何に生じるのかという事を、宇宙の無限の意味(意味がありすぎる事による無意味さ)から、単なる事実、「在るものは在る」という同一律トートロジー)からなる非意味によって、有限の意味へと分断するという我々の普段の営みを用いて論考する。
なぜなら、結論から述べると、笑いとは、「無限」「矛盾」「無意味」に対して「これを考える事は必要のない事だ」という一つの有限な結論を導き出す事である。
 笑いとはこのゲーム(世界)に内在する無意味さをプレイヤーに考えさせない様にし、ゲーム(世界)に熱中させる為の手段の一つである。
 
  1. 意味とは何か。意味の定義について。
一言でいえば意味とは『関係性』の事である。
意味を定義するならば、『意味とは無限の関係性の中から有限の関係性を用いた合理的な解釈の事であり、合理的な解釈が共感される事により意味へと成長するもの』である。
普通、意味とは物事の『目的』の事であると解されるが、どのような目的を持つことであろうと、その前提として、私的な経験や知覚との関係性、あるいは時空間的な前後関係を持たなければなるまい。
関係性を持たなければ、意味は生じない。
例えば、「水」。これだけでは、何の意味も持たない。ただの記号であり「空」である。水に触れ、知覚し、経験という自らとの関係性に縁って意味が起こる、(縁起する)のである。
あるいは、文法の前後との関係性によっても意味は変化する。
火事なので「水」を下さい。
のどが渇いたので「水」を下さい。
同じ「水」でも状況によって意味が異なる。火事が起きて「水!」と言う者に、コップに入れた水を差しだす事や、あるいは喉が渇いて「水!」と言う者に、バケツに入れた水を差しだす事は、水という言葉が指示するものが何であるかは知っているが、意味を理解しているとは言えない。
ただ単に「水」と言うだけでは、未だ意味を持たず、未意味の状態である。
未意味とは、無限の意味が潜在している状態であり、無限の意味を理解する事は我々に不可能なので、意味が崩壊している無意味な状態である。
意味とは、言葉自体に存在するのではなく、その都度、その状況との関係性に縁って千差万別に変化し縁起するものなので、意味とは関係性の事であると言える。
 
2、無意味とは何か。意味がありすぎる事による無意味について。
宇宙の無意味さとは意味を持たない事による無意味さではない。
意味を持ちすぎる事により、意味が崩壊する無意味さである。
つまり、無限の意味を持つことによる、意味の様相の潰れである。
宇宙は無限である。(なぜなら無いものからはいかなるものも生じない。無いものは無いものだから無いものについて考えられない。考えられないものは考えられない。考えられないものについて何もいう事は出来ない。考えられないものは存在しない。無は存在しない。つまり、宇宙はただそれのみで存在する事が出来る。初めも終わりも無い。始まりも終わりも無いのだから、無限である。証明終わり。)
宇宙は無限であるので、無限の関係性を持つ事が出来る。
無限の関係性を持つという事は、矛盾律が成立しうるという事である。
あらゆる関係性を持つ事が出来るという事は、矛盾する関係性をも持つ事が可能である。
無限の意味を持つ事がいかなる状態か理解できない。同時かつ同一視点で、AかつBという矛盾した状態は理解不可能。(別の時点、別の視点で異なる事は矛盾ではない。表から見たら黒で裏から見たら白に見える事は矛盾ではない。ある時点では波のように振る舞い、別の時点では粒子のように振る舞う事は矛盾ではない。同時かつ同一の視点でAかつBで在る状態が矛盾である。)
無限の意味を有するという事は我々が理解できる範囲の外側を有しているという事。
無限の意味と矛盾律は、我々にとって理解不可能であり無意味となる。
意味がありすぎる事による無意味。無限の関係性を持つ事による無関係。
 
―非意味とは何か?
非意味とは、意味が無いという事ではなく、意味が在るとか無いとかでは、無いという事。意味がないのではなく、意味ではない事。他と一切の関係性を持たず成立するもの。必然性とは、AだからBになるという関係性に依存するものであるが、非意味とは一切の関係性を持たずAだからAであるというだけ。つまり、非意味とは非―必然性といえる。つまり単なる偶然、事実。ただ、そうであるもの。在るものは在る。いかなる説明が入る余地もないほどに絶対的なもの。AだからAであるという事。同一律トートロジー
原因と結果がそれ自身に内在するもの。他の関係性、意味と一切無関係にただそれ自身に依って成立するもの。
つまり<現実性>、<私>、が非意味の存在である。
そもそも、意味が成立するこの意味世界、意味空間を成立させるものは、この<現実性>、あるいはこの<現実性>の事を真の<私>と言ってもいいのだが、『現に・・・』という事はいかなる意味や理由をも撥ねつける力を持つ。
どのような論理的、矛盾であろうと、現実性には逆らう事が出来ない。
存在している事に意味があろうとなかろうと、関係なく、<現実性>が在れば、即、存在は成立する。<現実性>とは意味や関係性自体と関係がない。
というより、そのような意味や関係性が存在する意味世界、意味空間を、そもそも成立させているのが<現実性>なのであり、意味世界の外側に位置するものである。つまり<現実性>は意味や関係性が成立する以前、だから非意味、非関係。
<私>があらゆる意味や関係性から無関係に無条件に成立している事からも、<私>の成立は意味があるとか無いとかではなく、意味ではない、非意味なのである。
 
そして、無限の意味を持つ、無意味な世界から、私的経験、知覚体験によって、有限の意味を我々は取り出す。人間が思考する事、あるいは行為する事とは、無限の意味から、有限の意味を取り出す、無限の意味→有限の意味への移行であり、私的経験、知覚経験とは無限の関係性から有限の関係性へと断ち切る事だと言える。
私的経験、知覚経験とは、単なる事実、偶然により成立する非意味である<現実性>なしには在りえず、なにが知覚されていようが知覚されているのであれば、現実である。
それが、冒頭で述べた、宇宙の無限の意味(意味がありすぎる事による無意味さ)から、非意味によって、有限の意味へと分断するという事である。
無限の意味×非意味=有意味
 
そしてもちろん、私的体験である「笑い」も、無限の意味(意味がありすぎる事による無意味さ)から、有限の意味に分断する。
無意味さ×笑い→有意味
 
―無意味さと笑いについて
無意味とは何かで述べたように、無限の意味は矛盾律を有す事が出来るので、意味が崩壊する。あるいは無限の意味とは、無限の関係性を持つ事であり、無限は理解不可能なので無意味となる。そして、未だ意味を持たない未意味は、潜在的に無限の関係性を有しているので、未だ意味を持たない未意味も無意味である。
考えるという事は無限の意味(意味がありすぎる事による無意味さ)から有限の意味を抽出する事、有限化する事であると述べたが、思考する事に限らず、私的経験、知覚体験は全て、自己と対象との間に有限の関係性を持つという事であり、宇宙の無限の意味を有限化するという事である。
そして私的経験、知覚経験はすべて<現実的>な事であり、<現実性>はあらゆる関係性から(たとえ無限の関係性であろうとも)無根拠に、無関係に、無条件に発生する。<現実性>はこの意味という関係性から成り立つ意味世界、意味空間をそもそも成立させているので、意味世界、意味空間の外側に立つ。つまり意味や関係性が成立する以前、意味の在る無しでは、無さ、つまり意味ではない非意味なものである。
 
そして「笑い」も当然、私的体験の内の一つであり、考えても無意味な事(無限、矛盾、無意味)から「これは考える必要性は無い」という一つの有限の意味を出す為の手段の一つである。
意味がありすぎる事による意味の崩壊=「無意味」としてこれまで以下の3つ述べたが、これら全てを、我々は笑いによって「考える必要性は無い」と断ち切っている。
1、無限について。つまり無限の意味、関係性を持つという事による意味の崩壊→「無意味」
2、未意味。未だ意味を持たないという事において無限の関係性が潜在している。潜在的に無限の関係性を持ってしまう事による関係性の様相の潰れ→「無意味」
3矛盾律。無限の関係性を持つ事により、成立してしまう矛盾律→「無意味」
 
笑いとは、無限、矛盾、無意味という理解不可能な事を理解しようとする事から断ち切り、『これは考える必要性はない事だ』と一つの有限な結論を出す事である。
無限の関係性(考える事の不可能さ)を前にして思考はフリーズする。無限の関係性を考えつくす事は不可能であり、行動不能となる。あるいは矛盾の状態を理解する事は不可能であり、思考は停止する。無意味に意味を見出そうとすると思考は停止する。無関係の中に関係を見出そうとすると事は不可能である。笑いとは、このような、無意味な事に意味を見出そうとする事により発生するフリーズ状態、無限や矛盾など理解不可能な事を理解しようとする事による思考の無限牢獄から脱出する為の手段の一つであり、無限の意味から有限の意味へ、あるいは未意味という潜在的に無限の意味から有限の意味へ、矛盾から排他律(A又はAではない)へ移行させる。もし我々に「笑い」が無ければ、無限という数を求めて永遠に計算し続けてしまう、コンピュータの様に、身動き一つとる事が出来ないようになってしまうだろう。あるいは、関係性(意味)を無限に考え続けしまい行動が出来なくなるロボットの様になってしまうだろう。笑いはそのような無限、理解不可能なものから、考える事を退かせる為の手段の一つである。
人間は、矛盾や無意味や無限を前にして『これは考える必要性が無い事だ』と判断すると、考えないように考えようとするのではなく(考えない様に考える事はそれ自体矛盾しており無意味な行いであるので)考えない様に体を動かす、それが笑いだ。笑いとは頭を空っぽにして、とにかく行動する事だ、この世界をプレイする事だ。(笑うと頭が真っ白になり思考できなくなる。笑いは思考を停止させる働きがある。)また笑い以外にも「信じる」という事も、ある所で無限の関係性から断ち切り、考えを停止させ、行動に移す為の手段であると誰もが同意する所であろう。
 
笑いが、「無限」「無意味」「矛盾」などの理解不可能な事を理解しようとする事から断ち切り、『これは意味が無い事だ』と一つの有限の意味を見出す例をいくつか述べる。
  1. 時空連続性の無い(現在の状況と一致しない)物事。(時空連続性と無関係、無意味)×「笑い」→「これは考える必要性が無い事だ」
  2. 行動と言動の不一致(矛盾による無意味さ)×「笑い」→「これは考える必要性が無い事だ」
  3. 本来(通常)の目的と異なる目的に向けられた物事。目的の同時背反性。(矛盾による無意味さ)×「笑い」→「これは考える必要性の無い事だ」
  4. 無意味という目的の為に行われる物事(意味が無い事に意味を求める無意味さ。無意味に意味を求める矛盾。無関係という関係性を求める矛盾)×「笑い」→「これは考える必要性の無い事だ」
  5. 無限に連鎖する物事(無限を考える事の無意味さ)×「笑い」→「これは考える必要性の無い事だ」
 
あらゆる亨楽に内在しているのは無意味さである。
笑いという亨楽自体に内在しているのは無意味さであり、そして無意味さが笑いを引き起こすものであもある。
そして笑いとは、このゲーム(世界)自体に内在している無意味さを考えさせないようにし、プレイヤーをゲームに熱中させる為の手段である。(※詳しくは「死とゲーム論」参照)