―存在とは何か

真理への飽くなき追究

―断片集

―断片集
 
≪笑いについて
理性が失われる事。睡眠、性交、そして笑い。
笑ったら負け。
なぜなら、笑いは我々に教えてくれるからだ。
自らがある観念に囚われているという事を。可能性、思慮の浅さを、懐疑の甘さを。
あなたが、笑うのは私のせいではない。
私は、ただ、別の可能性の一つを提示しているだけで、あなたが笑うのは、ただ、あなたの思慮の範囲内にそれがなかっただけという事。
私のせいにしてはいけない。あなたの思慮の甘さが引き起こした事なのだから。
自分の行為を見て笑う。自己矛盾に陥り笑う。
やはり、それも思慮の甘さがもたらしたものだ。
矛盾とは自らの思慮の甘さがもたらす。
矛盾とは自らの思慮の範囲外に何かが生じる事。
冷静でなかったから逆に思慮の範囲外の行動が行えていたのであり、後で通常のガチガチの固定観念状態で観察すると、思慮の範囲外となるので、笑いが生じるのだ。
つまり、もともと、冷静に思慮深くあり、可能性の範囲内の行為を行っていたのであれば、思慮の範囲内であるので笑う事はない。
笑いとは、思慮の範囲外に生じた事、つまり矛盾した事を考えさせない様に排除する為のチリ取りの様なものだ。笑えば吹き飛ばせる。いうならば、笑いとはある固定観念を保持させる為の手段であり、懐疑、あるいは考えるという理性的なものとは、真逆の作用を示す。
つまり、笑いは自らが理性的でないという事を示す。
思慮が浅く、ある観念に囚われているという事を。
その事に気付かせてくれる。
笑って楽しんでいる場合ではない。
それは、恥るべき事であり、自らの思慮の浅さ、懐疑の甘さを反省すべき事。≫
 
 
 
≪幸福について
沢山所有していなければ幸福になれない者と少しの所有で幸福になれる者ではどちらがより幸福であるか。
沢山所有しなければ幸福になれないものは、幸福である為の条件がより困難であり、幸福でなくなる可能性がより高く、それらが、彼を毎日毎晩悩ませるだろう。なぜなら多くを所有している者は失う場合も大きいが、少ししか所有しない者は失う場合も少しで済むのだから。
故に少しの所有で幸福になれる者の方が、多くの所有で幸福になれる者よりも、より幸福である事に違いない。
しかし、少しの所有で幸福になれる者より、何も持たずして幸福になれる者の方がより幸福である。なぜなら、何も持たずして幸福になれるという事は、幸福を失う事は無く、ただ在るというそれのみで幸福であるという事だから。
即ち、より幸福に近づく為には、所有するものを減らしていく必要があるのだが、多くの者は真逆の事を行う。即ち、より多くを所有できないと幸福になれないようにする。
だから、より不幸へと近づいていく事になる。≫
 
 
 
≪<私>がいつ生じたのかと問う事は、宇宙はいつ誕生したのかと問う事と同じく、愚問である。<私>が在るから世界が生じた、宇宙が在るから時間が生じたのであり、つまり、<私>あるいは宇宙が存在するから時間も生じたのである。<今>なしに未来や過去については何も言及できないように、<私>や宇宙なしに、いつ生じたのかと問う事すら不可能なのである。つまり、そのような問いをする事が出来るのも、<私>や<宇宙>が存在していたからであり、作られたものが、作ったものより前に存在する事など不可能である。故に、作られたものが、作ったものの前について言及する事など不可能。相対的な存在が絶対的な存在について言及する事が不可能でるように。
時間と言う事により、時間自体が存在するように錯覚するが、時間自体が存在する訳ではない。時間とは観念にすぎない。時間自体が存在するのではなく、何か変化するもの、物質であったり精神であったりするものがあるだけである。何か変化するもの(物質や精神とよばれるもの)が在るから、時間という観念が生じるのであり、物質や精神なしに、時間自体が存在する事は出来ない。物質や精神のような何か変化するものには、それぞれ変化する程度の差があり、その差が時間とう観念を生み出すのである。これは早い、あるいは遅いと相対的判断に基づいて。言うなれば、時間とは精神、物質の変化の事。そしてその様な変化は<今>の内で生ずる。世界は<今>という形式の内に存在する。<今>とはつまり、<私>の事である。故に、<私>や物質や精神なしに、時間という観念が生じる事もない。故に<今>がいつ生じたのか、<私>がいつ生じたのか、あるいは<宇宙>がいつ生じたのかと問う事はそもそも不可能なのだ。時間という観念は<今>の内でしか存在出来ぬから。≫
 
 
 
≪実在と呼ぶものは、表象としてあらわれたものなのか。それとも表象としてあらわれる以前のものか。君がそれがコップだと思ったのはなぜか。君がそれをコップだと決めた、根拠や条件を述べよ。君は、形あるものを見て、触れる事により、そこに形なきもの、つまり、形となる以前の思い、理念を読み取り、それを故に、それをコップと決めたのではないのか。つまり、それがコップであるのは、形や色、質などのみえるものに依存するのではなく、表象以前の思いや理念であるみえざるものに依存するのではないのか。つまり、それがコップである条件として表象は必要条件であって、十分条件ではない。
あるいはそれを、コップであるとしたのは、無条件に無根拠に、ただ、今までの習慣に従ってそれをコップだと決めつけたのであれば、それは別にコップと呼ぶ必要性は無く、別の名で呼ぶ事も可能であったはずだ。
可能なものを不可能にするのは習慣であるから。
君がそれをコップだといって、全員が同じくそれはコップだといってもそれはコップなのではない。それがコップであるという観念を持つ集団(観念共同体)がいる事を示すだけで、それがコップなのではない。それは、ただ知覚される何かに過ぎない。真の実態はそのような表象ではなく、表象され、具現化される以前、現象の根底に働く、理念や思いだ。
製作者の理念、思いがまず初めに在り、やがてそれが具現化され表象される。我々は表象の根底に働く理念、思いを推測する事が出来る。
ある現象を知覚し、その根底に働く、理念、思いを推論する事により、我々はそれがコップであると分別する。どれだけ、コップらしき表象をしていても、そこに理念、思いを感じなければそれはコップであるとは言えない。例えば、どれだけ斧らしき表象をしていても、そこに、製作者の理念、思いを感じる事が出来なければ、それは石器ではなく、石と呼ばれるように。≫