―存在とは何か

真理への飽くなき追究

―自由な意思はない。運命に逆らう事が自由ではない。

―自由な意思はない。運命に逆らう事が自由ではない。
 
現代の多くの人は、意思というとすぐに「自由」と直結させて考えてしまい、自由な意思が存在すると思い込んでいる。
逆に、意思に対立するものは「欲望」であると思い込んでいるが、実は、自由な意思は存在しないという事、そして欲望というのは、意思に最も親しきものであり、同一のものともいえるという事を述べようと思う。
 
「責任」という言葉がなぜこれほど、現代において多用されているかというと、意思が自由なものであると思い込んでいるからに他ならない。意思は自由だと思いこんでいるから、「あなたがそうしたのはあなたがそれを選択したからでしょ?だからあなたの責任でしょ?」という事になる。
例えば、ある人間が暴力を振るった。周囲は当然の如く、けがを負わせた彼に責任を問う。なぜなら、暴力を振るった原因は彼の意思にあると考えるからだ。そして意思は自由と思い込んでいるので、彼の自由な意思が原因で暴力を振るった、だから彼に責任を問うのであるが、これは間違いである。意思というものが生じる背後には、無数ともいえる原因が潜んでいるからである。例えば、彼が朝、周囲の者から、陰口を言われてイライラしていただとか、天気が悪くて、暗い気分になっていただとか、朝食べたものが古くなっていてお腹の調子が悪かっただとか、もちろん暴力を振るった相手の言動がむかついた、あるいはそもそも、彼が存在していたという事等、無限の原因、つまり認識する事が出来ないほどの原因により成立しているのだが、そのような背後の見えない原因はバッサリと切り捨てられ、彼の意思だけが、暴力という結果を生み出した原因である、というあまりにも愚かな考えに基づいて「責任」という言葉を発しているのである。
では意思というものは何なのか、という事を考えるには、意思と対立するものと通常考えられている欲望について考えなければならない。
なぜなら、結論から述べると、欲望と同時に生じるのが意思であり、意思の伴わない欲望というのは存在しないからである。
欲望を定義すると、『欲望とは自分が持っている本質的な力を維持、あるいは向上させる為に役立つ事をしたいという意思を伴った衝動』の事だといえる。
逆に意思を定義するならば、『意思とは自分が持っている本質的な力を維持、あるいは向上させる為に役立つ事をしたいという欲望を伴った衝動』だと言える。
「自分が持っている本質的な力」とは何かというと、あるものが有する、『本性』『性質』の事だと言える。例えば、人間が有している本質的な力に生命力がある。つまり、肉体を維持、あるいは向上させようとする力が備わっている。ケガをすれば、修復させ、病気になれば熱を出して病原菌を排除する、人体の組織の材料が減れば、作成する。生命力という人間の本質的な力、(本性)を維持、あるいは向上させる為に、あの木のリンゴをとろう、リンゴを食べよう、食べる為にお金を稼ごう、働こう、あるいは貯蔵しておこう等、あらゆる意思と同時に欲望が生じているのである。
意思と同時に欲望が生じている以上、意思と欲望は対立するものではなく、むじろ人間の本質的な力を維持、あるいは向上させる為に生じている衝動であり、同一のものである。
なので、よく言われる「欲望に逆らえない弱い意思」という表現は不適切であり、それはただ単に、ある欲望が別の欲望よりも相対的に大きいだけであり、意思が弱いのではなく、ある欲望の方が相対的に小さいだけなのだ。
欲望に逆らえるのは、より大きな欲望だけである。あるいは意思に逆らえるのはより大きな意思だけである。
人間が有する本質的な力(本性)は生命力、認識力のように共通の力もあれば、共通しない力もあり、人の本性は人それぞれ異なる。
例えば、生まれつき絵を描く事が得意な子供に、運動をさせるのはその子供の本質的な力(本性)を維持、あるいは向上させる事にはならない。逆に、運動が得意な子供に、絵を描かせるのはその子供の本質的な力(本性)を伸ばすことにはならない。
そして自由とは何かというと自らが有す本質的な力(本性)を十分に発揮している時、自由であると感じ、逆に、自らの有す本質的な力(本性)を十分に発揮できない時、不自由と感じるのである。
例えば犬は生まれつき4足歩行であるが、4足歩行から脱して2足歩行になる事が、自由になる事ではない。4足歩行という性質を十分に発揮してしる時、犬は自由であると感じるのである。逆に人間が2足歩行から脱して4足歩行になる事は自由になる事ではなく、2足歩行という性質が十分に発揮出来ている時、自由であると感じるのだ。
犬が4足歩行である事、人間が2足歩行である事は運命である。通常、自由に対立するものとして『運命』が挙げられるが、自由と運命は対立などしない。自らが生まれつき(運命的に)有している力を十分に発揮出来ている時に自由と感じるのであり、逆に自らが運命的に有している力が十分に発揮出来ていないとき不自由と感じるのである。
生まれつき読書をしたり考え込む事が好きなのに、運動する事を強制させられると不自由と感じ、逆に、生まれつき運動する事が好きであれば、読書をする時ではなく、運動している時が一番自由だと感じるだろう。
そして、幸福とはより自由になっていく事である。つまり自らが有す本質的な力をより向上させる事がより自由であり幸福に至る道である。
なので、自由である事、幸福である事を自分以外のものと比べる事は愚かである。個物が有している本質的な力を十分に発揮させていく事が自由であり幸福に至る道なので、自由の在り方、幸福の在り方は人それぞれ異なるのである。
 もの事の認識を深め考える事が好きな人は、より深く考え、物事を認識していく事が自由であり幸福と感じ、運動を行う事が好きな人は、より素早く、しなやかに、あるいは力強く動けるようになる事が自由であり幸福の道なのである。
魚は泳ぐという自らの本質的な力(本性)を十分に発揮している時に自由であり幸福だと感じるのであり、水の中で生きていくという運命から逃れて、水の外で生きていくのは不自由であり不幸なのである。
 結論をのべると、自由、幸福に至る道は、人それぞれ異なるので、他者と比べても無駄である。なぜなら、それぞれが有する本質的な力(本性)を伸ばしていく事がより自由で幸福な道であるから。
 なので、自由、幸福になるにはまず、自分自身を見つめ直し、自分が持っている本質的な力(本性)を知る事。そしてそれを磨き上げる事。それが自由と幸福に至る最短の道であり、自分だけの道でもある。