―存在とは何か

真理への飽くなき追究

―意思は行動の原因ではない。自由な意思はない。

―意思は行動の原因ではない。自由な意思はない。
 
「私たちは選択する自由な意思がある。
そして自由な意思を使って決めたのだから、決めた人に責任がある。
だから、責任をとりなさい。」
 
はい、今の社会では、もう耳にタコが出来るくらいどこでも言われている内容ですね(笑)、本当にこれは妥当な認識なのでしょうか。
私たちの精神が、必要としているのは何よりも真実を知る事、妥当な認識を有する事です。
あえて言いますが、理性にとって、真理ないし、妥当な認識を有する事以外に価値のあるものは何一つとして存在しないのです。
 
今日の社会では人々は、意思の自由さと意思の力に対して、皆が盲目的な信仰をしています。
誰もそれを疑おうともしていません。
ですが、我々の精神は、妥当な認識を欲している、普遍的な認識を欲しています。
ですから、それが本当に妥当な認識なのか、考えてみましょう。
 
今日は、太郎君とソクラテスさんに登場して頂きましょう。
 
太郎君「はー、ボクはどうしてこんなにダメなんだろう」
ソクラテス「どうしたんだい太郎君、そんなに落ち込んで」
太郎君「あ、ソクラテスおじさん。いや、ボクはダメだなって思って」
ソクラテス「どうしてダメなんだい?」
太郎君「ボクはまた今日のテストの点数が0点だったんだ。またお母さんに怒られるよ」
ソクラテス「どうして、テストがうまく出来なかったんだい」
太郎君「僕は、勉強をしようと思っても、結局友達と遊んだり、ゲームをしたりしてしまって、全然勉強が手につかないんだ」
ソクラテス「それはどうして?」
太郎君「僕の意思が弱いからさ。だから、すぐに別の事をしちゃうんだ。お母さんもいつも言ってる。太郎は意思が弱いんだから、もっと強い意思を持ちなさいって。」
ソクラテス「それは、妥当な認識なのかな。君が勉強が出来ない原因は、本当に君の意思が弱いからなのかい。そもそも、君の行動を決定させているのは、君の意思なのかい?」
太郎君「え、そうじゃないの?」
ソクラテス「仮に君の行動を決定させているのが意思だとすると、君が友達と遊んだり、ゲームをしたりするのだって、君の意思という事になる。さて君は、遊んだりゲームしたりする為の強い意思を持っている、でもそう言われてなんか違和感を感じないかい?」
太郎君「うん。僕が友達と遊んだり、ゲームしたりするのは、楽しいからだし、自然とそうなってしまう事で、特に意思を使っているという感じはしないよ」
ソクラテス「そうだとも、太郎クン。君は素晴らしい回答をしてくれたね。つまり、人にある事を為すように決定しているのは、衝動だとか欲望であって、決して意思なんかではないんだ。つまり、太郎君に遊びたい、ゲームしたいという衝動や欲望が生じたから、太郎君は、遊びに行った。あるいは、勉強をしたくないという衝動や欲望が生じた。だから勉強をしなかった。それだけの事で、意思が太郎君の行動を決定している訳ではないんだよ。」
太郎君「じゃあ意思って何なんですか」
ソクラテス「よく聞いてくれたとも!結論から言うと『意思とは経験や記憶に基づく、予測された未来の観念に他ならない』。つまり、まず太郎君に友達と遊びたいという衝動が生じる。その衝動は君の体に何らかの変化をきたし、君は自分の体の変化を認識する。君は自分の衝動を認識する事によって自分の欲望に気付く。ボクは遊びたいという欲望をもっているんだと。その後、君は過去の経験や記憶に基づいて、自分が遊んでいる未来の事を観想するだろう。その観想が「意思」と呼ばれるものだ。つまり、意思と呼ばれるものは「予測された未来の観念」に他ならず、衝動ないし、欲望の後に生じる結果であって、人間の行動を決定させているのは、衝動や欲望であって、「予測された未来の観念」、つまり意思ではない。僕たちはどんなに未来の観念を抱いても、それは僕たちの行動を決定する要因にはならない。なぜなら、僕たちにある事を為すように決定しているのは衝動や欲望なんだから。」
太郎君「じゃあ僕が勉強が出来ないのは、ボクに弱い意思があるからじゃない・・?」
ソクラテス「そうとも!太郎君が勉強をしないのは、太郎君に勉強をしたいという衝動ないし欲望が生じないからであって、未来の観念が君の行動を決定させている訳ではない。」
太郎君「じゃあ、どうしたらボクに勉強しようとする衝動や欲望が生じるの」
ソクラテス「そもそも衝動だとか欲望がなぜ生じるのか考えてみようか。衝動や欲望が生じるのは、その背後に無限の原因が潜んでいると思わないかい。つまりある一つの原因がその衝動や欲望を生じさせている訳ではないんだ。例えば太郎君が友達と遊ぼうとする衝動や欲望が生じるのは、太郎君の体調が良いとか、その友達と仲がいいとか、今日は晴れているからだとか、そもそも友達が生きているからだとか、宇宙が存在しているからだとか、実質無限ともいえる原因により、君の友達と遊びたいという衝動や欲望は生じている訳だ。つまり、僕たちは自由に衝動や欲望を抱く事は出来ない。僕たちにある事を成すように決定しているのが衝動や欲望である以上、僕たちは自由に行動するなんて事は不可能であって、必ず、背後にある無限の原因の上に僕たちの行動は成立しているんだ。まず第一に、僕たちは自由に行動できるという観念を抱いている事が間違いなんだよ。だから、太郎君は自由に行動できるという非妥当な認識を有しているから、勉強が出来ない事、つまり自分の自由に行動出来ない事を悲しんでいる。でもそれは愚かな事だ。なぜなら、僕たちは背後の無限の原因によって生じる衝動ないし欲望によりある事をなすように決定されているんだからね。」
太郎「じゃあ、僕は勉強をしなくてもいいんですか」
ソクラテス「しなくてもいいというか、したいという衝動や欲望が生じないから出来ないんだ。僕たちは自由に衝動や欲望を有す事は出来ないんだから、したいという衝動や欲望が生じるまで待っていればいいさ。ましてや勉強が出来ない事で悲しんだり自分を責めたりする必要なんてまったくないんだ。今は君は友達と遊びたい、ゲームしたいという衝動や欲望によって、友達と遊んだりゲームしている。それは妥当な事だ。自然な事だ。人間の抱く、衝動や欲望は人間の活動能力を発揮する事に向けられている。そして、自己の活動能力を発揮している限り、人間は幸福と感じる。太郎君は、自分がしたいとおもう事を無理やり押さえつけるのではなくて、存分に行い、自分の能力を存分に発揮すればいい。それが個物にとって何よりの幸福なんだから。」
太郎「でも、自分がしたい事をなんでもすればいいんだったら、僕は自分が嫌いな人をいじめたり、他人のものを奪ってもいいって事?」
ソクラテス「いいかい、僕たちの有する精神は何よりも妥当な認識を求めている。普遍的な認識を求めている。僕たちは先ほど、自己の活動能力を存分に発揮する事が何よりも幸福な事だと言った。では、他人の活動能力を阻害する事は、自己の活動能力を向上させる事に本当になるのだろうか?」
太郎「うーん。でも自分の嫌いな人はいない方がいいと思う」
ソクラテス「でも、嫌いな人の活動を阻害させたら、その人は、自分の活動をもっと阻害する様になるだろうね。そうするとお互い不幸となる事は容易に想像できるね。逆に、他の人間と協力し合えば、仮に2人でやるとすれば、同じものを得るのに時間と労力を1/2に減らす事が出来るね。単純計算だと100人で1/100に、1億人で1/100000000にする事が出来る。
つまり、人間にとって人間程、有益な存在はこの世界にいないんだよ。逆に他人の活動を阻害する事は、自己の活動を結果的に阻害する事になる。これが妥当な認識だと思うけどね。このような妥当な認識を有してもまだ、君は君の嫌いな人間の活動を阻害したいと思うかな?それによって君自身の活動が阻害され不幸になるとしても」
太郎「いや、もう思わないよ。」
ソクラテス「素晴らしいよまったく君は!これからも妥当な認識を有す事に努めてくれたまえ。それが君の幸福につながるんだから」
太郎「わかりました。それじゃあ、友達と遊んできます!」
ソクラテス「はい、自己の能力を存分に発揮し、楽しんできたまえ」