―存在とは何か

真理への飽くなき追究

―何も分からない、何も思い出せないという事

―何も分からない、何も思い出せないという事
 
『一体、私は何をしているのか・・・』
この、無限の宇宙の中で、一体私は何をしているのか・・・
この、無限の宇宙の中で、私に何が出来るというのか・・・
そもそも、なぜ私はここにいるのか・・・
 
例えるならば私は漂流者。
気が付けば、大海原の小さな島にポツンと取り残されていた。
なぜ私はここにいるのか。
私は誰なのか。
私は何をしていたのか。
一切の記憶を失っている。
ここで何をすべきなのか。
誰に連れてこられたのか。
何の為にここにいるのか。
しかし何も思い出せない。
ここから脱出する方法も分からない。
一つだけ知っている事は、確実に死ぬという事。
人類は滅亡するという事。
全ての死因は生きている事であり、誕生は滅亡と共に始まるという事。
逃れるすべは無く、我々は全くの無力でみじめであるという事。
訳の分からぬまま、死へ向かって生きているという事は恐ろしい事でもあり、とにかく何かに熱中出来る事を探して目をそらそうとする。
しかし、それは恐ろしい事かといえば、そうでもあり、又、そうでもなく、訳の分からぬまま人間たちが宇宙の中で立ち騒いでいる様子は可笑しくもあり、それでも必死に生きていくという事しか出来ない無力な我々を見て少し愛おしくも感じる。
しかし、それらの事を考えないように、とにかく何かに熱中し目をそらした所で、時間は過ぎ去り、知らず知らずの内に死に至る。
自分の為、あるいは人類の為に何かを成した所で、一体何の意味があるのか。全ては無駄な事だ。
私が死んで、人類が滅亡した所で、世界は変わらず回り続けるだろう。
であるならば我々を生んだ宇宙の為に何かを成せばいいのか。しかし、宇宙の為に私が出来る事などあるのか。私はあまりに無力な存在だ。
 
私はただ知りたい。
思い出したい。
私はなぜここにいるのか。
私は何であったのか。
なぜ私はここに連れてこられたのか。
私の目的は何であったのか。
 
全ての生は死と共に始まり、生きているのであれば死ぬ。
私は死ぬ為に生きているのか。
いそれは違う。
死ぬ為であれば、初めから死んだままでよかったはずだ。
生まれてくる必要性はない。私を生んだ者はそんな無駄な事はしないだろう。
全ての生は死と共に始まるという事は、逆に言えば、死と共に生は始まるともいえる。
私が生きているという事は、裏を返せば、生まれる為に死んだともいえる。
つまり、在るという事の目的は生きる事でも死ぬ事でもないという事だ。
私がここにいる目的は生きる事でも死ぬ事でもないという事だ。
 
そもそも私とは何なのだ。
Aさんが私の事を愛していると言うが、Aさんが愛しているのは私ではなく、Aさんが愛しているのは私に付随している性質、属性の事だ。
つまり、外見だとか、性格だとか、魂だとかそういうものだ。
仮に私の外見、性格、記憶、知性、理性、魂等、私に付随している全てにおいてまったく同じコピーを作ったとする。
Aさんは、私と私のコピーを識別する事は出来ず、私のコピーを今まで通り変わらず愛し続けていくだろう。つまり、Aさんが愛しているのは私ではなく、私に付随している性質、属性であり、いくらでも替えがきくものだ。
しかし、私の外見、性格、記憶、魂、全てをそっくりなコピーを作っても、私は、自分とこのコピーを間違える事は絶対に無い。
つまり、私には絶対コピーする事が出来ない、代替不可能な唯一無二の何かを有してしるのであり、これこそ、私そのものと言える。
唯一無二という事は、ただそれのみで在るという事だ。
ただそれのみで在るという事は始まりもなく終わりも無い、不死なる存在という事だ。
私は死ぬ。正確には私に付随している外見や性格や記憶や魂は、死に死に死にて、生まれ生まれて生まれるが、私そのものは、不死なるものという事だ。ただそれのみによって存在する始原の存在という事だ。
 
では、この私そのものは、なぜここにいるのか。
なにゆえにここにいるのか。
なぜ在るのか。
 
なぜこんな大切な事を忘れてしまったのか。
それは私にとってかけがえのないものだったはずだ。
なぜ何も思い出せないのか。
 
無いのではなく、在るという事は、在るという事の方が善いという事だからなのか。
私を超える善なる意思、善なる力がそこに働いているからなのか。
 
その善なる意思に従う事が、大切な事なのか・・・
私にとっても・・・
そして私を超える存在にとっても・・・