―存在とは何か

真理への飽くなき追究

今と死後について―老人と病人の対話2

今と死後について―老人と病人の対話2
老人「先ほど話した通り、死は無でないのなら、死後、私はどうなるのかね」
病人「死後なんて無い。」
老人「どうしてじゃ、死があるのだから、死後もあるじゃろう」
病人「死は無い。だから死後もない。」
老人「どういう事じゃ」
病人「死なんて知らない。今しか知らない。」
老人「先ほど、生が在るから死もある。逆も然りといったではないか。」
病人「いった。でもこうともいった。あるものはあり、ないものはないと。つまり、在るものは在るのだから、死のうが生きようが、在るものが無いものになったり、無いものが在るものになったりはしない。だから、生と死はどちらも存在の内容の違いに過ぎない。」
老人「では、何か在るものなのだ。」
病人「今です。これは、どんなに疑っても疑っても、あるいは、欺く神にどれだけ欺かれていようと、欺かれている限り今が在る事は欺かれない。」
老人「今が絶対的存在じゃと?今はホレ、こうしている間に過ぎ去っているではないか。逆に言えば、今ほど、不安定な存在はないであろう。」
病人「それは、今という意味、つまり本質のみを言語によって語る事が出来る事に由来する錯覚です。今という意味は言語において自由に動かせます。しかし、今というものは動かす事ができるものではありません。今とは「これがすべてで、これでしかない、これ」 の事です。今が動いているのではなく、「これがすべてで、これでしかない、これ」が絶対不動の原点として、その周りをもろもろの現象が動いているだけです。いくら、過去や、未来を想像したりした所で、すべて今の中で起きている現象にすぎません。我々は今から抜け出す事は出来ません。全ての現象は今という不動の形式の中で起きる内容です。今しかない。故に死後というのはありません。生前もありません。生前も死後も全て今です。全存在は今に在り。存在とは今の事です。」
老人「そうはいっても、明日や昨日という言葉があるじゃろう。今が動くから今日が明日になるのだろう。」
病人「だから、それは先ほど、言った様に、「これがすべてで、それでしかないそれ」という動かす事が不可能な『今』の、意味のみを言葉で自由に扱える事が出来るからそう錯覚するだけです。時計の長針が今と思いこむ事により、今が動いていると勘違いしたり、カレンダーの日付が変わっていく事により、今が動いていると錯覚しているだけなんですよ。どうして今が時計の長針やカレンダーの日付になるのですか。そんな訳ないじゃないですか。今というのは、「これがすべてでこれでしかないこれ」、つまり現実性の事ですよ。いかなる内容でもありません。いかなる現象といえども、今の中でしか生じません。ですから、いかなる現象が変化しようとも、今は絶対不動なんです。現象的変化である、肉体や魂の変化、つまり生と死が、今に影響を与ええる事は不可能なんですよ。だから、生前も死後も無い。今しかないんですよ。」
老人「では、輪廻転生もないのか」
病人「今とは、「それがすべてでそれでしかないそれ」なので、いかなる現象的内容でもありません。現象的内容が成立する『場』ともいえます。つまり、内容ではなく形式。存在の内容ではなく形式です。生と死は変化するもの、つまり、現象的変化です。生死とは今という不動の原点を中心に変化するもろもろの現象の一部にすぎません。今というのは、内容ではないので、なにものでもありません。ゆえに、今という形式の中では、なにものでもありえます。猫だろうが、オケラだろうが人間だろうが、植物だろうが、天体だろうがありるでしょう。しかし、いかなる変化をしようとも今であるという事は不変です。そして、今が無ければ、私という自己意識も存在できないので、これが私だと思えるためには今が必要不可欠です。故に、今が私であるといってもいいのです。なにものでもないものであるとはなにものでもありえる。生死を繰り返す事により、様々な内容が生じるでしょう、人になったり、犬になったり植物になったり・・・しかし、今という形式である所の私は不動です。」
老人「死んでも今はある?」
病人「そうです、今というのは変化する事のない絶対不変です。絶対不動の今があるから、全ての現象は動くのです。あらゆる現象が変化すると思えるのは絶対不動の今があるからです。逆に言えば、今が動くという事は、はあらゆる現象の静止です。今の消滅は、いかなる現象内容とは関係なく、全ての現象の静止、つまり世界の終焉を意味します。」
老人「なぜ、今というけったいなものがあるのじゃ。」
病人「そうなんです、あらゆる現象が生じる所の今。全ての存在は今なしにはありえません。今とは、即ち神です。なぜ今があるのか。とんでもない事です。在るものはあり、無いものはない。なぜなのか。存在が存在を問い続ける限り、存在は存在し続けるででしょう。存在を問うているのは人類だけではありません。あらゆる存在が自身を問うているのです。」