―存在とは何か

真理への飽くなき追究

死を思え―老人と病人の対話1

死を思え―老人と病人の対話1
 
老人「はぁ、、人生いろいろあったが、私もそろそろ逝く。この頃になるとよく考え込んでしまうんですよ、、そう死について。正直、言うと死ぬのが怖い。かといって見苦しく生きながらえようとは思っとりません。しかし、せめて死ぬ事の意味でも分かれば、少しはこの不安からも逃れられるのかもしれん。。」
病人「何をいってるの、おじいさん。最近になって死について考えているだなんて。ボクなんて、物心ついた時からずっと考えているよ。もちろん、ボクのこの病気による所が大きいのかもしれない。常に死と隣り合わせだからね。でもね、おじいさん、死と常に隣合わせなのは、それは生きている者について全てに当てはまる事でしょう。病気だろうが、事故だろうが、自然災害だろうが、関係なく、生きているという事は死ぬという事でしょう。なのに、年を取ってから、死について考えだすなんてちゃんちゃらおかしいや。生きている限り、死は平等に与えられるんだから。」
老人「うん、もっともだ。どうせ私は死ぬ。なら生きている事に意味などあったのかと妙に悲しく思えてくるのですよ、この年になると。君はどうなのかね。率直に聞くが、明日起きたら、生きていないのかもしれない、今日死ぬか、明日死ぬか、、、君が言う様に生きている限り、死から逃れられないのに、こうして生きている事にむなしく感じないかね?」
病人「おじいさん、ボクたちは等しく、何か生きる事に意味を見出して「よし、生まれてこよう」と思って生まれてきたのではないですよね。気が付けば、ボクがいた。生きていた。つまり、そこに生があったから、生きている。それだけじゃないですか。自分の意思なんか軽く超えているんですよ。生きているという事は。つまり生きているのではなく、生かされていると言った方が正しい。自分の意思や意味によって生きているなんて思ったら大間違いさぁ。そしてそれは死も同じ。生が自分の意思を超えているのだから、死も同じで自分の意思なんか超えているんですよ。ただそこに生があるから生きているように、ただそこに死があるから死ぬ。自分の意思で生きて死ねるなんか思ったら大間違いさ。」
老人「それじゃまるで、生きる事も死ぬ事も意味がないみたいではないか」
病人「そうだよ、意味はない」
老人「価値もない?」
病人「うん。生きる事も死ぬ事も価値はない。だってそれはだだそのようになっているというだけの自然現象だもの。」
老人「それでは、なぜ君は生きているのですか」
病人「『善く』生きるためだよ、おじいさん。ただ生きる為に生きているのではなく、善く生きる為に生きているんですよ。普段、僕たちが使う価値という言葉ありますが、そもそも価値って何でしょうか。」
老人「それは、よいものでしょう」
病人「そう、価値とは善いものです。なら『善』は価値のあるものだ。はっきり言っておくけど、宇宙、万物、森羅万象はこの究極の『善』という目的にむけて運動し続けているんですよ。価値というのは、我々の生きたり、死んだりしている相対的な事の上に在る絶対的価値の事なんですよ。絶対的だからこそ価値があるんです。だから、変化していくこの肉体、つまり生や死に価値はなく、毎日上下変化するお金も価値でもない、変化するものには価値はないんです。絶対不変の真理、これは価値が在る事です。美しいものはだだそれのみで美しいものであるのはなぜでしょうか、なぜ我々は美しいものを愛してやまないのでしょうか。それは美が生死を超えて価値が在る事を知っているからです。つまり、真・善・美こそが、絶対的価値であり、善く、正しく、美しく生きるから生きる事が価値でありうる訳で、ただ生きる事や死ぬ事に価値はないんです。我々の精神が真・善・美を愛してやまないのはなぜでしょうか。それは我々の精神の本質が真・善・美であるからです。知るとは我々の精神の本質が真・善・美である事を知る事です。すなわち、知るとは全てが1である所のものから作られたとう事を知ることでもあります。」
老人「そうはいっても死ぬことは怖いでしょう。」
病人「まるで死とは何かわかっている様な言い方ですね。どうして分からないものを怖がる事が出来るのですか。なぜ分からないなら、分かろうと考えるのではなく、怖がろうとするのですか。」
老人「死は、無くなる事です。全て無になる。だから恐ろしい。」
病人「あはは。全て無いのなら、無いという事を誰が決めるのですか。誰も無い事を知る事が出来ないのに、無があるなんて誰がいったのですか。というか、「無が在る」と言う事によって「しかし、それを認識する私が在る」と言っている事に気付いていない。」
老人「無は無い?」
病人「在るものは在り、無いものは無い。無いものは無いのだから、誰にも知られる事もない。在るという事を知られた時点でそれは無いものでない。無は誰にも知られないから無でありえる。」
老人「今だかつて無を認識した者はいない?」
病人「認識する者がいる限り、認識する者が在る。」
老人「つまり、無であれば、私もいない、怖がる事も出来ないと?」
病人「そうです、無を怖がる事など不可能なんですよ。それでもまだ死を恐れますか」
老人「いや、無が怖いのではなく、別れが怖いのです。愛する家族達を残して去る事が。」
病人「しかし、それは、生まれた時に死を覚悟する様に、出会いの時に別れは覚悟しておくべきなんですよ。生なくして死なし、逆も然り。同じく出会いなくして別れ無し、別れなくして出会いなし。まさに神秘的なご縁によって出会えた、一期一会。別れは自然の事なのですから、恐れる事よりもむしろ、出会えたご縁に感謝するべきなのではないでしょうか。」
老人「うん、そうかもしれんな。普段、あたりまえと思っとることが当たり前でないという事を忘れてしまうと、感謝するという事も忘れてしまうのかもしれん。」