―存在とは何か

真理への飽くなき追究

なぜ―生きるのか

なぜ―生きるのか
 
人は、何の為に生きているのか。
生きているのであれば、考えなくてはならない。
なぜ、人は生きるのか。
なぜ―生きるのか。
それは、
 
『善く』生きる為だ。
 
故に、ただ生きる事は、善く生きる事ではない。
生きる事が善い事になるのは、善く生きている時であり、かつその時に限る。
 
故に、悪く生きる事は、生きる事が悪い事だ。
悪く生きるのであれば、生きない方が善い。
 
善く生きるという事は、法律や、ルールに従う事が善く生きる事になるのではない。
悪い法であれば、その法に従って生きるという事は、生きる事が悪いという事になる。
法や、ルールは人間の作り事であり、いくらでも変更可能な内容であり、真理ではない。故に、善でもない。
法や、ルールに従って生きるのではなく、真理や善に従って生きる為には、各自がそれぞれの状況にてその都度、よく考えるしかない。
なるほど、確かに、道徳や法律やルールに、ただ従うだけで、考えずに生きる事は楽だ。でもそれは、善く生きる事にはならない。何が善い事で何が正しい事か、その都度、考えて行動するのは大変だ。でもそれは、より善く、より正しく生きる為には必要な事だ。
故に、よく考えて生きる事が、善く生きる事になる。
 
ソクラテスが、なぜ若者にあれ程、議論をふっかけたか。若者に自ら考える手助けをするためではなかったか。善く生きる手助けをするためではなかったか。
真の教育者はなぜ死刑を受け入れたか。
自らが一度、いかなる結果になろうとも、私は従うと言った。
死刑になったからといって、脱獄したりすることは、自らが言った事を偽るという事になる。自らを裏切り、言葉を裏切るという事になる。それは悪く生きるという事だ。
逆に、自らが一度言ったことを、守るという事は、正しく生きるという事だ。善く生きるという事だ。
悪く生きる事や、ただ生きる事よりも、ボクは善く生きる事を選ぶ。
その結果、死刑になろうと構わない。ボクは生きる事よりも善く生きる事を選択する。
なぜなら、ボクは食べる為に生きるのではなくて、善く生きる為に食べているのだもの。
 
しかし、現代の状況はどうか。
ただ生きる為に、生きていたり
食べる為に、生きていたり
金もうけのために、生きていたり
他者から評価される為に、生きていたりしている者達ばかりで
善く生きる為に生きているのだと自覚して生きている者が少なすぎるのではないか。
 
そうは言っても「生きなければならないから」という。
そんな事、誰が誰に強制したのですか。
人が生きなければならないなんて誰も強制なんぞしてやいない。
何ゆえに生きなければならないと言っているのか。
 
生きるという事に価値はない。
だって、死んだことも無いのに、どうして生きる事の方が、価値があるなんて言えるのですか。
価値があるのは、生きる事ではなく、『善』だ。
善く生きるから生きる事が価値となるのであって、ただ生きる事に、生きなければならない理由なんかない。
 
今の教育者(親)は、子供に、勉強しなさい、いい成績を取りなさい、ばかりで、善い人になりなさい、正しい人になりなさいと言えているのだろうか。
勉強が出来たり、成績がいい人間になるよりも、善い人間、正しい事には正しいと言える人間になる方が、何より重要であろう。
 
大人は子供に、善い生き方を示せているのだろうか。なぜ生きるのかと問われて答えに詰まってはいないか。大人自身が子供に向かってきちんと生き方を示せているか。
大人自身が『なぜ生きているのか』『なにゆえに我々は生きているのか』という事を考えて生きていなければ、子供もまた考えずに生きる。
子供の教育よりもまず自身の教育が先決であろう。