―存在とは何か

真理への飽くなき追究

私とは何か―形式と内容について

私とは何か―形式と内容について
 
人類の歴史とは争いの歴史。
有史以来、今もずっと続いている人類の過ちは全て
「汝自身を知らぬ」事によるのではないか。
私に対する誤診によるのではないか。
私とは何かをよく考えない事に由来するのではないか。
 
<私>に対するよくある誤りは、所属や帰属や属性が私であると勘違いする事。
 
私とは日本人である。
>日本人でないなら私ではないのですか。日本があろうがなかろうが、私である事に変わりはないのではないですか。
 
私は○○会社の△×である。
>会社が無くなったら私でなくなるのですか。
会社があろうがなかろうが、私であることに関係はないのではないですか。
 
私は人間である。あるいは、女である。男である。
>人間でなかったら私ではなくなるのですか。夢の中で人間以外になった事はないのですか。
胡蝶になっても私であることに変わりはなかったのではないですか。
 
私は意識である
>では他者の意識も私なのですか。あなたは他者の意識についても私だと思っているのですか。見えないものを見えると言っているのですか。感じない事を感じると言っているのですか。
 
では私とは何か。
私とは、意識の事であるが、しかし他者の意識のことではない。『この』意識の事。
そして、『この』意識のあれやこれやの内容が私なのではない。意識の形式が私だ。
つまり、私の意識の形式から他者の意識の形式を引いて、残ったものが『私の本質』という事になる。
私の意識の形式-他者の意識の形式=私の本質
 
私の意識の形式とは、
『現実的に意識を意識する事が出来る』形式であり
他者の意識の形式とは、
『現実的に意識を意識する事が出来ない』形式の事。
他者と話し、生活する中で、他者に意識が在る事は疑いのない真実に思える。
他者の意識はあるが、『現実的には他者の意識を意識する事は出来ない』形式となっているだけではないか。
しかし、私の意識はどうしてか、『現実的には意識を意識する事が出来る』形式となっている。
つまり、私の本質とは、他者の意識の形式と私の意識の形式の差によって残ったものが私の本質に他ならぬではないか。
私の意識の形式-他者の意識の形式=私の本質
 
『現実的に意識を意識出来る形式』-『現実的に意識を意識出来ない形式』=『現実性という形式』
となる。
私の意識と他者の意識の違いとはまさにこの『現実性のある意識』か『現実性の無い意識』かの違いでしかない。リアリティがあるかないかの違いでしかない。
であるならば、≪現実性≫という形式こそがまさに、私の意識から他者の意識を引いた後に残る、私の意識の本質、つまり私の本質ではないか。
『<現実性>という形式』が私であるという事は、世界のいかなる内容も私を規定する事は出来ないという事であり、世界のいかなる内容とも私は関係ないという事か。
 
例えば、夢の中がいかなる内容であろうと、胡蝶になっていようが、鳥になって空を飛んでいようが、現実的に見えており、感覚があれば私である。
 
なぜか、キャベツの上にいて、緑の体をしていようが、現実的に何かが見えているのであれば私となる。キャベツを食べてどんな味がしようが、現実的に何か味を感じているのであれば私となる。
 
何が見えていようと見えているのであれば『私』である。
何を感じていようが、感じているのであれば『私』である。
世界のいかなる内容とも関係ない。意識のいかなる内容とも関係ない。
現実的な意識があれば=即、私である。
 
地球があろうがなかろうが、肉体があろうがなかろうが、関係ない。
つまり、私とは世界の内容ではなく、世界成立の形式の事。
世界の形式の事であるから、世界の内容とは関係ないのはあたりまえの事だ。
私とは、世界成立の形式の事であるから、私は世界の内容とは関係ない。
世界の内容とは関係なく、世界の『在る、無い』に関係する。つまり、内容ではなく、世界の成立に関係する。
『現実的に意識を意識する事が出来る形式』があれば、内容には関係なく、即=世界成立となる。
 
何が見えていようと、『現実的に見えているという形式』が消滅すれば、見えている内容とは関係なく、ただ、見えなくなる。
世界の内容がどのようであろうと、『意識の現実性という形式』の消滅は、ただ世界の消滅となる。意識とは別に「物自体」があろうが、なかろうが、『現実的な意識という形式』以外で世界を成立させる事はできないので、現実性の消失は、即、世界の消失となる。
 
仮に今、『現実的な意識という形式』→『現実的でない意識という形式』に変化したとする。
つまり『現実的に意識を意識できる形式』→『現実的に意識を意識できない形式』、つまり『私』→『他者』の変化。これは≪現実性≫が在る→無いの変化であり、世界の成立→消滅の変化となる。この時、世界の内容にはいかなる変化も与えないので、世界の内部の者が気づく事は不可能。
世界の形式の変化であるから、世界の内部にはいかなる変化も与える事なしに、世界を生成⇔消滅させる事が出来る。
つまり、私とは驚くべきことに
世界成立の条件であり、≪現実的な意識という形式≫の事である。
これは世界を開闢させる『神』と同じ力である事を意味する。
 
世界の形式である所の私から、世界の内容、人類の歴史をみていくといろいろと見えてくる。
なんともまぁ、私と関係ない事に対し、人類は腹を立て、飽きもせず争いあってる。
例えば、王族の血縁同士の争い。
私とは、○○家の人間と誤診している。
どこの家に生まれようが、『現実的に意識できる意識という形式』がなければ私ではない。
だいたい家族なんて作りごとにすぎない。そんなものどこにあるのだ。
家族なんてものがあると思っているから家族がある事になるのだ。
つまり、家族があるとおもっている者の考えの中にしか家族はない。
血縁が家族の証だという。それも、血縁が家族であると思っているからそうなっているだけなのだ。だいたい血縁が家族というならば、人類全員が家族ではないのですか。
つまり、自らの考えの中にある、家族という作り事に無理やり自分を規定し、争いあっているだけなのだ。
 
例えば国家間の戦争
私は日本人だ、アメリカ人だ、○○人だと誤診している。
どこに生まれようが、『現実的に意識を意識できる形式』がなければ、私ではない。
どこそこに生まれたという世界の内容とは私は一切関係ない。私とは世界の形式のことだ。
だいたい日本なんてどこにある。
日本とは何だ。
土地だと言うなら、もともと地球である所に、かってに人間が境界を引いてここが日本、ここが日本でないなどと勝手に決めた作り事ではないか。
つまり日本とは各人の考えが勝手に作った作り事。これを物語という。
日本をバカにされたから腹を立てるというのはどう考えてもおかしいではないか。
作り事の物語をばかにされたぐらいでどうして相手を殺すのだ。殺し合うのだ。
物語と現実を混同して、人を殺すという事は、ゲームと現実を混同して人を殺してしまった子供となんら変わらない。それを大人は集団で行うからなおタチが悪い。
物語とは言葉だ。つまり、言葉によって人が殺されたりしている。
言葉はその人の映し鏡だ。
正しい言葉を使う人は正しい人だし
嘘ばかりつく人は正しくない人だ。
逆に言えば
善い言葉を使えば善い人になるし
悪い言葉を使えば悪い人になる
だから、言葉は大切にしなければならない。
人を生かしも、殺しもする。
だから、よく、考えて使わなければ危ない。
感情によって話される言葉は動物の叫びや悲鳴のようなものだ。
理性によって話される言葉が正しい言葉だ。
 
 
例えば宗教戦争
宗教において、何か祈ったり拝んだりするような対象であるような神はすべて人間が作り出した物語。我々が作った物語の神をバカにしたから相手を殺す、または私たちとは違う物語の神を信じているから相手を殺す。こんなバカな事ってあるか。
小説の中の人物をバカにしたから相手を殺しているようなものだ。
物語は物語なのだから、各人が物語として接すればいいのだ。
だいたい、ただ拝んだり祈ったりして、願いが叶うなんてうまい話があるか。
拝んだり、祈ったりする暇があったら考えたらどうか。
神とは何か。
神は祈ったり拝んだりする対象ではありません。
ただそれのみで存在するすべての根源である1が神です。
であるから世界全てが神でもあります。
神とは存在を成立させる力です。
ゆえにあらゆる存在が神です。
すでに存在しているのにこれ以上何を望むのですか。
 
 
人類の誤診とは鏡に映ったそれを私だと思った事か。
あるいは、自らが作った物語の中に自らを規定して物語の中に生きた事か。
もともと『現実的に意識を意識できる形式』、つまり世界成立の形式であった所の私を、世界の内容とした事か。
不自由とは、もともと世界の形式である絶対自由である所の自分を、自らの作り事である物語の中に規定した事による。あげくの果てに『自由の権利を』などと要求する。これを自作自演という。
 
 
ニーチェは超人になれといった。
超人とは何かすごい人になれといった訳ではない。
私自身に還れと言ったのではないか。
つまり、私とは何か考えろと。
『汝、自身を知り、汝、自身に還れ』と言ったのではないか。