―存在とは何か

真理への飽くなき追究

―生きる事が善いのは、善く生きている時であり、かつ、その時に限る。

―生きる事が善いのは、善く生きている時であり、かつ、その時に限る。
 
<真理条件>
AがBであるのは、ABの時であり、かつその時に限る。
何も難しい事は言っていない。
『雪が白いであるのは、雪が白い時であり、かつその時に限る。』
黒い雪が降っている場合は、雪が白いは偽であるという事である。
であるから、
『生きる事が善いのは、善く生きている時であり、かつその時に限る』
つまり、悪く生きている場合は、生きる事が善いは偽である。
であるから
『ただ生きる事は善い事ではなく、生きる事が善い事であるのは善く生きている時に限る』
ソクラテスの鉄と鋼の理論によってそうなる。
ただ生きる事とは、食って排泄する、つまり衣食住の生活の事である。
衣食住の生活あれやこれやは、ただ生きる事であって、善く生きる事にはならない。。
善く生きる事について考える前に、まず『善とは何か』を考えなければ話にならない。
生活のあれやこれやではなく、『善とは何か』を。
善と悪は『~べき』『~べし』で強制、強要する、いわゆる道徳や法律の事ではない。
ここが、そもそも根本的間違いなのであって、道徳や法律で人間を強制するという事は、動物を檻や首輪で従えているようなものであって、実は地上に道徳や法律が存在する限り、私たちは人間的ではなく動物的ですよ、理性的でなく動物的ですよ、という事を自ら告白している様なもの、つまり精神的レベルが低い事を自ら宣言している様なもので、非常に恥ずかしい事なのである。人類の歴史とは即、精神の進化の歴史の事であるから、今だ、道徳や法律が存在するという事は人類の精神的レベルが低いという事である。人類の歴史を見るという事は精神の進化の歴史を見るという事と同じである。なぜなら、精神が肉体を動かすのであるから、人間の行動の歴史とは精神の進化の歴史である。この世界は見えざるものが見えるものを動かしているのである。人類を動かすものは世界精神であり、歴史とは即、精神の進化の歴史なのである。
 
みえざるものが、みえるものを動かしている。我々の肉体を動かしているものは、精神である。実はよくよく、自らを内省してみると、自らのあらゆる行動の根底に『好き、嫌い』の感情が働いているという驚くべき事に気づく。人間を動かすのは思想やイデオロギーなどではない。それらの思想やイデオロギーの内容ではなく、それらを好き嫌いと思っている感情である。いかに、素晴らしい思想でも、人はそれが嫌いだと動かない。いや、私は違う、私は感情によらず、論理的に判断して行動している、と主張する者も実は論理的な事が好きで論理的でない事が嫌い、つまり論理と感情が一致しているソクラテスのごとき人なのである。(論理によって生きているこの人は狂人と呼ばれて死刑となったが、自らの論理の正しさに比べたら死なんぞどうでもよいのである)
さて、実は善悪の判断にも、根底に、好き嫌いの感情が働いているのである。
自らの行為目的を、善である、悪であると判断できるのはそもそもいかなることか?
それは、好き嫌いと善悪は根底で一致しているからである。
自らの善悪の判断において最も重要なのは、自らの根底にある好き嫌いの感情に対する素直さ、まっとうさ、正直さである。
人が自らの行為目的を善だと判断できるのは、根底に好きという感情があるからである。好きという感情が働く、だから、これはもしかしたら善い事なのではないかと判断する。
逆に人がそれを悪だと判断できるのは、自らの行為目的の根底に嫌悪の感情が働く、であるから、もしかしてこれは悪なのではないかと判断する。
実は、この根底に働く、『好き』と『嫌い』の感情は真理である。
根底で働く好きは善であり、根底で働く嫌いは悪である。
善と知って善を為さない、逆に悪と知っていて悪を為すのは、何かと理屈をつけて、自らの根底にある、まっとうな感情に蓋をし、自らを偽っているからに他ならない。
自らの根底にあるまっとうな感情に正直に素直に生きる事が善であり、まっとうな感情に背き、自らを偽って生きるのが悪である。そんな人生は苦しいに決まっている。
たまに、「正直者はバカを見る」などと言う者がいるが、どうしてそうなるのですか。
自らに正直に生きるという事は、根底にあるまっとうな感情に正直に生きるという事である。善を為すという事である。善く生きるという事である。生きる事が善いという事である。
逆に自らに不正直に生きるという事は、自らの根底にあるまっとうな感情に背き、自らを偽るという事である。悪を為すという事である。悪く生きるという事である。生きる事が悪いという事である。
「正直者はバカを見る」などと言う者は不正直な者に決まっている。誰に向かって言っているかというと、正直者へではなく、不正直に生きている自らへの言い訳の為なのだ。
さて、自ら善い人生を生きている人と、自ら悪い人生を生きている人、
バカなのはどっちか?
 
ずらずらと述べたが、じつはあたりまえの事を述べただけであって、こんな事、分かる人は言われなくてもわかっているのである。
だが、あたりまえの事をあたりまえの様に行動する事ほど、難しい事はない。
それを理性の人といい、ソクラテスのごとき人である。
理性と難しいくいっているが、要はまっとうさの感覚である。
常なる知識(真理)を身に着けた人、つまり常識=真理の人である。
まっとうさの感覚、つまり理性を身に着けるには考えるしかない。それ以外に方法など無い。
まっとうさの感覚とは、他人の考えに合わせるとか、そういう事ではない。他人の考えを取ってつけるのではなく、自分で考えるという事である。
考えるとは思い悩むとか、意見を言うとかそういう事ではない。むしろ正反対である。
考えるとは内省するという事である。
考える力とは内省力である。
悩んでいるとは何らかの価値を見出しているという事である。
しかし、考えるとは何らかの価値を見出すことではない。『価値とは何か』をまず考えることである。
意見とは、私はこう思う、いや私はこうは思わないという主張、要は、私はこれが好き、私はこれが嫌いという自己主張である。考えるとは、その自明に思っている所の自己、即ち「私とは何か」を問うことである。自己が分からないのに主張なんてしていられるか。
何らかの意味を見出す事でもない。『意味とは何か』をまず考える事である。
つまり、考えるとは
Aとは何か?
これだけである。
 
考える事、=即人生の様なソクラテスは善悪について自らの意見を言い合う、いわゆる知識人達をこう喝破する。
『君たち、善だとか悪だとかいろいろ定義しているけど、君たちは善が善という言葉である事、そして悪が悪という言葉であることは認めているんだろ?じゃあ、善とか悪を定義し合うのではなくて、君たちがその言葉をどう使うか、つまり君たちがどう生きるかの方が重要ではないのかね?』
まさに、まっとうな言葉である。