―存在とは何か

真理への飽くなき追究

―オカルトと宗教について

―オカルトと宗教について
 
人がオカルトや宗教にハマるのはなぜか?つまる所、超能力、超常現象、霊能力、等々がすごい、不思議だ、私もこんな力を持ってれば、便利だ、得する、欲しい、というコレであろう。くだらない。
どうしてそうなる。オカルト?超能力?超常現象?それがどうした。べつにあっても不思議でも何でもない。人は分からないから不思議だという。ではどうして、「通常現象」を不思議だと思わないのか?つまり「在る」という事。存在の大謎、意識の大謎、生と死の大謎に比べたら、めった起こらない超常現象なんぞ、どうでもいいわ。
キリストは水を葡萄酒に変えたり、水の上を歩いたり、手をかざして病気を治したらしい。
多分本当の事なんだろう。別にそんな事がおこってもおかしくない。だってもっとすごい事が起こっているんだから。つまり宇宙が存在する、意識が存在する、私が存在する事。『存在が存在している』という驚愕的事実に比べたら、屁の様なものだ。私は目の前で、人が水の上を歩いても、ああそうですかと言える自信がある。つまる所、オカルトや宗教に走る人は、分からないことを分かったフリをしている内に分かったと信じ込んでいるだけなのである。本当は何も知らないのに。だから、通常現象である存在の謎、意識の謎、生と死の謎、を不思議と思わずに、超常現象ばかりを不思議だという。
でも分からないという事を分かった人は違う。分からないから眼を背けるという事ではない。分からないからこそ、眼を見開き、何だこれは!と見ようとするのだ。つまる所、人間が知っている真理は、逆説であるが、知らないという事を知っているという事だけである。だからこそ、知への起爆剤となる。
キリストの奇跡なんかでもって神を認識するなど、何にも考えていない証拠である。
存在しているという事、たったこれだけを考える事で、十分、神を認識できるのだ。
 
オカルトや宗教の前にまず
『汝自身を知れ』
2500年も述べ伝わる、まさに至言である。