―存在とは何か

真理への飽くなき追究

―存在するとはいかなる事か

―存在するとはいかなる事か
 
―「存在する」とは<存在>が自らの存在について分かり知ろうとする事に他ならぬ。
・即ち、神の知性とは、自らを分かつ事であり
・即ち、神の理性とは、自らに還る事にある。
 
宇宙の活動力の根源は、神の知性の働きにして
万物生命の発現は、神の理性の働きである。
 
即ち、我々もまた、神の知性に他ならず、一を分かつ事にある。
即ち、我々もまた、神の理性に他ならず、全ての根源たる一に還る事にある。
 
知性とは横であり地である
理性とは縦であり天である。
神は天と地であり、十字となる。
 
知性の働きとは、今の科学であり、一を無限に細分化し、分類し、分析する事にあり分かつ事である
理性の働きとは今の哲学であり、細分化された事象を統合してゆきどこまでも遡り、全ての根源たる一に還す事にある。
一とは老子のいう道であり、プラトンのいうイデアの事でありヘーゲルのいう絶対精神である。絶対理性の自己実現など、その他様々な別名で呼ばれているが全て同じ意である。
 
万物生命の一切は神の知性と理性を含しているのであり、我々が生きる使命とは、一を分かり、知ろうとする事に他ならぬ。
即ち、「善く生きる」とはこの事であり
生きる事が善い事になるのは
自らが、善く、生きるからに他ならないのであって
ただ、生きる事は、善い事にはならぬ。
即ち、金や物が人生の価値とするならば、人生に価値はないのである。
当たり前である。人生とは自分の事に他ならぬのに、自分以外の所に価値を求めたので、人生に価値は無くなるのは当然の帰路である。
 
今日び、人類は、神の知性の働きによる科学の営みにより、物質的豊かさは向上したのであるが、神の理性の働きを疎かにしてきた結果、精神は貧しい。
 
即ち、今こそ、知性の働きにより細分化し、分類してきたもろもろを全ての根源である一へ向けて遡り統一する必要がある。それには、知性の働きによる科学ではなく、理性の働きによる哲学が必要である。既にこのことは2500年前にプラトンが言及している。つまり、今も昔も人類は本質的に変わっていないのである。
 
どんな時代であろうが、我々は今を生きるより他にない
ならば、時代、社会のせいになど、出来るはずがない。
なぜならば、この時代に我々が生きているという事は、我々一人一人が
このような時代を作りあげている事に他ならん
 
それなのに、どうして社会や時代のせいに出来るだろうか
何か他人事の様に、社会や時代のせいにする、これ程に無責任な事って他にあるか
 
つまり、社会が時代がどうのこうのと、どこかの評論家の様に言う前に、我々一人一人が社会であり時代である事を知るべきである。
 
我々一人一人の総体が社会に他ならないのだから、社会を善くしようとするならば、我々一人一人が善く生きるより他に道はない。
 
それを何か、他人事の様に、社会が善くならないのは政治のせいだ、教育のせいだ、時代のせいだ、他人のせいだとし、社会が善くならないのは自分とは関係ないとするのは無責任にも程があるぞ。
 
それだから、自らの人生についてもまるで他人事の様に権利だなんだと述べる。
私には幸せになる権利がある、自由の権利がある、生きる権利がある等と何かにつけては権利権利と主張する。つまり主張する所は幸せをよこせ、自由をよこせ、私を守れというこれである。
まるで、自らが幸せになり自由になり生きる事が、誰か他人から与えられるかのように錯覚しているようである。
自分の幸せを他人から求めていったい誰の人生を生きているんですかっ
他人から与えられないと自由になれない自由って自由なんですかっ
自分の身は自分で守るなんてあたりまえの事なんで分からないんですかっ
 
今はもう、何もかも間違っているのだ。間違っているという事すら気づかないから大変である。根本的に180度ひっくり返さないといけない。
 
つまり、自分の人生なんだから、自分が幸せになるのも、自由になるのも、生きる事も、全部、自分の心がけ次第であって、どこかの他人だとか社会だとかが与えてくれるというのは大きな間違いなのである。
つまる所、『覚悟』が足らないのだ。
いい加減、幸せになるかならないか覚悟決めなって
いい加減、自由になるかならないか覚悟決めなって
いい加減、生きるか死ぬか覚悟決めなって
覚悟決めたらもう、他人のせいだなんて絶対に言えないし、他人のせいなんかに出来るはずがないのである。
 
つまり、自分以外の他人や社会のせいにするという事は、全然覚悟が足りないという事であって、つまり、別に本気で幸せになろうとも自由になろうとも生きようとも思っていないという事の裏返しである。
つまり結局の所、すべて自分の思い通りになっているのだ。
世界とは宇宙とは、かくもうまく出来ているものだと感心する次第である。
 
森羅万象全ては、神の知性と神の理性による活動力と発現によるものであるから全て思った通りになる、これもあたりまえの事である。