―存在とは何か

真理への飽くなき追究

時間とは何か―ソクラテスと青年の対話

時間とは何か―ソクラテスと青年の対話
 
青年「ソクラテス、こんな所に!探しましたよ。ちょっと今お話しいいですか」
ソクラテス「おお、親愛なる友よ。もちろんだとも、ボクはいつでも大歓迎さ」
青年「今日、お話ししたい事は時間についてです。ソクラテス、時間とは何でしょうか?」
ソクラテス「おお!、時間、これはまた面白そうな内容ではないか!所で、時間について考えてみると、はて?何か時間なんてものが本当にあるのだろうか?」
青年「何を言っているのですかソクラテス。時間そのものの存在を疑うなんて。あなたは、時間に追われるような生活をしていないから、そのような悠長な事がいえるのですよ。我々は日々時間に追われて生活しているのです。」
ソクラテス「うん、その君がいう時間ってのは、つまりあの24時間で1日、365日で1年とかの事をいっているのだろ」
青年「そうですよ」
ソクラテス「どうしてそれが時間になるのだ」
青年「え、時間ではないのですか?」
ソクラテス「それは、太陽の周りを回る地球の自転速度と公転速度の事を表しているだけだろう。1秒とは、ある原子がX回振動した事であるとか言っても、それは時間ではなくて、単に物質aの速度の事だろう。時間は物質の速度の事ではない。」
青年「いやいや、時間が動いているから、物質が動く事が出来るのですよ」
ソクラテス「何でそんな事になるのだ。物質が動くのは物質が持つ内的な力(重、弱、強、電磁力、等)による物質間の相互作用だろう。そもそも時間という単位は物質の速度により規定されているではないか。地球が1回転する速度を1日とするという様に。動いているのは時間ではなくて、物質ではないかね。つまり存在するのは時間ではなくて、物質間、精神間、物質精神間の相互作用の力とそれに伴う速度変化だけとは言えないかね。速度変化はそれぞれ異なるから、基準(物差し)が欲しい。だから、ある原子がX回振動した回数をとりあえず1秒という事に決めて、とりあえず、これを基準に物質の速度を表現しましょう、と人間が決めたのであって、時間は人間が作りあげた変更可能な概念であって、リアルな存在ではない。現実(リアル)に存在するのは物質、精神の変化だ」
青年「確かにそうですね。概念が言葉で表現される事で、あたかもリアルに存在するものかの様に錯覚していました。」
ソクラテス「そうだ、言葉とは、無いものをあたかもリアルに存在するかのようにさせるとてつもない力を持っているのだ。例えば「死」と言う事によって、あたかも「死」がリアルに存在するかの様に思えてしまう。しかし、「死」は概念であってリアルな存在ではない。」
青年「そうでしょうか?死は無い、と言う事は、死は在る、と認めている事になりませんか?あるものが無いと言う時、あるものの存在自体を認めていなければ無いという事はそもそも言えませんよね?例えばリンゴが無いと言う時、リンゴという存在は認めていなければリンゴが無いと言えない様に、死は無いという時、既に死という存在を認めている事になりませんか。」
ソクラテス「死、つまり「何も無い」という<概念>としては、在る。が、何も無い=虚無は現実には存在しない」
青年「それはなぜでしょうか?」
ソクラテス「それは先ほど君がいった通りだ。つまり、無いという時、必ず、在るが先行して成り立つ。在るから無いと言えるのであって、無いと言えるのは現に在るからに他ならない。端的に『無い』のであれば、無いとはそもそも言えるはずがないではないか。本当に無を表現したいのであれば、無いと言ってはいけない。それは在ると言う事になるから。あえて無を表現するのであれば、沈黙するしかない。無いのであれば、想像したり表現できてはいけない。それが無の条件なのだから。つまり、無が存在するのであれば、無は決して誰にも知られてはいけないし、表現されてもいけない。無の存在が証明されたり表現されたら、それはもう無ではない。つまり、無は自らの存在を否定し続け、無は自らの外側に自身(無)を無限回に内包し続ける。無限・・・その名の通り、無が限り無いから無限なのだ。無をいくら存在で内包しようとしてもすぐさま無によってまるごと内包されてしまう。」
青年「おもしろいですね。無を純化すると対立していると思われていた無限が出てきましたね」
ソクラテス「そうだ、全て『もの、極まって反す』。すべては表裏一体なのだ。すなわち流転しているのだ」
青年「所で、先ほど『時間は動かない、動いているのは物質や精神だ』、とソクラテスはおっしゃいましたが、未来から→現在になって→過去になっている、つまり時間は未来→現在→過去へと動いているではないですか?」
ソクラテス「ふむ、所で、過去や未来はリアルに存在するものかね?」
青年「何を言っているのですか。未来があるから今が在るのであり、今があるならば、過去もまた在るでしょう。ソクラテス、まさかあなたは今が無いとでもいうのですか?」
ソクラテス「本当にそうかね?過去や未来と言えるのはこの現実がなければそもそも言えないのではないかね?過去や未来はこの現実により成り立っているのに対し、逆に現実は過去や未来とは独立してただそれのみで在る事が出来るものなのではないかね?」
青年「でも未来→現在→過去という時間の流れがあるではないですか?つまり未来があるから現在があるのですよ」
ソクラテス「よくよく考えてみたまえ。未来とか過去とかはこの現実において想起、想像された事であって、この現実の中で生じている事ではないか。未来や過去がただそれのみで存在しているのではなくて、あくまでも、ただそれのみによって存在する事が出来る現実によって成り立っているのではないかね?つまり未来→現在→過去というような考えもすべてこの現実の中で生じている考えであって現実に内包されているのではないかね?つまり現実(未来→現在→過去)という様に。」
青年「どういう事ですか?現実と現在は別なのですか?」
ソクラテス「まったくの別ものだ。現実とはまさに『これ』であってこれが全てでそれ以外ではありえないものだ。つまり対を絶している絶対の現実、絶対現実の事。いいかね、現実性とは開闢性ということであって、まさに世界を開くという事だ。つまり世界創造の原点の事だ。つまり、全てを内包するものでり、外側が無いという事。この絶対的な現実が、現実によって成り立っておる未来や過去と同じレベルにまで転落したのが現在と呼ばれるものなのだ。本来、過去や未来に、常に先立って存在する絶対的な現実が、過去や未来と同様に想起されるもののレベルに転落させられた事により、過去や未来と相対的なものとして捉えられたのが現在なのだ。そして未来や過去と同列のレベルのものとして現実は扱われ、あたかも未来→現在→過去という様にあたかも現実性が動いているという錯覚に陥る。この現実性は動いたりなどしない。現実性そのものは絶対不変、絶対不動、始まりもなく終わりもない。絶対不動の現実性のなかで、物質、精神の相対的変動があるのである。現実性はただそれにみにより成り立つ理由なき存在であり、存在そのものであり、まさしく神という名にふさわしい。そして「私とは何か?」という事をつきつめていくと、この絶対の現実、絶対現実という事になるのだ。」
青年「ソクラテス。ではあの悪魔のような問いである「なぜ、私とは、他の誰でもないこの私なのか?」という問いには何と答えるのですか」
ソクラテス「それはいい質問だ。いいかね、私とは、今まで言ってきた事の様に「無い」という時に常に先立つ「在る」や、過去や未来という時に常に先立つ「現実」のように他者という時に常に先立つ高次のレベルの存在なのだ。つまり「在る」から「無い」といえるのであって、「無い」という時、常に「在る」が外側に立って「無い」を内包する。

在る(無い)

現実が在るから未来や過去が言えるのであって、未来や過去と言う時、常に現実が外側に立って過去や未来を内包する。

現実(未来→現在→過去)

私が存在するから他者と言えるのであって、他者と言う時、常に私が外側に立って他者を内包する。

私(他者)

しかし、対を絶する絶対的な現実を未来や過去と同列のレベルまで下げる事によって現在として相対化させた様に、対を絶する絶対的な私という存在を他者と同列のレベルまで下げて相対化させるという誤りにより、「なぜ、私とは、他の誰でもないこの私なのか?」という問いが生じるのだ。本来、私とはただそれにみによって存在することが出来るのに対し、他者は私が存在しなければ、存在出来ない。他者の存在が消えても私の存在は消滅しないが、私の存在の消滅は他者の存在の消滅も意味する。つまり、私と他者は同列のレベルで扱える存在ではないので、そもそも、そのような問い自体が成り立たない、成り立てる事が出来ないのである。」
青年「なるほど、絶対的なもの→相対的なものに転落させてしまった事により生じた誤りだということですね。」
ソクラテス「そうだ。そして「なぜ無数の今が在る中で、どうしてこの今なのか?」という問いもまた、絶対的な現実を相対的な現在(今)に転落させ過去や未来と同列に扱う事により、あたかも絶対不動の現実性を動かせるかの様に誤診した結果生じた、今の複製化に原因がある。現実性は対を絶する絶対現実であり、ただそれだけであり、かつ、それが、全てであるような在り方をしているのに、相対化させるという無理により生じた、そもそも成り立たない問いなのだ。」
青年「言葉とは、異なるレベルのものを、言語に変換させる事により同列のレベルにし、相対化させるという力を秘めている様に感じます。」
ソクラテス「ああ、そうだとも、言葉とは、力だ。言葉は我々の存在を超越している。我々が言葉を使っているのではない。我々が言葉に使われているのだ。」