―存在とは何か

真理への飽くなき追究

―知識の断片(自虐的な武器etc)

―知識の断片(自虐的な武器etc
 
―意思という誤診
・意思とは意欲とそれに対する解釈により捏造されたものであり、意思というのは無い。
 
―喜劇的な悲劇役者
・計画を立てた後に計画通りに行かなかった事を嘆く者は、初めから存在しない自分自身に対する架空の価値を自ら創造した後に、その価値を失う事に対して嘆く者と同じく、愚かである。彼らは、自らが作り上げた台本と役にはてはめて、悲劇的な役を一生を通して演じるという事において名役者ではある。が、客から見れば、この演劇は喜劇である。
 
―理想の本質
・理想を持つ者は、その者が持つ不完全さこそが、理想を見る目となる。
・神が完全であるなら、神はいかなる理想も持つ事は出来ない。
・神がこの世界を創造したのであれば、既にこの世界は完全である。
・故に、神が理想とする世界などは存在しえないし、世界が何か良い方へ進化するという事も在り得ない。
・もし、神が理想を持ち得たり、世界がより良い方へ進化していると言うのであれば神は完全では無いという事になり、神は自らの存在を否定する事になる。
・故に、神が世界を創造したのであれば、既にこの宇宙は完全なのであり、神が理想とした世界とは即ち、「これ」である。
・神が理想とする世界とは不完全さを抱く人間が理想とする世界の事に他ならない。
・既に完全な世界に理想を抱く人間の愚かさ。
・理想を抱く前に、まずこの完全なる宇宙の存在を味わい感謝すべきである。
・世界が進化しているという誤診。既にこの宇宙は完全である。故に宇宙はよりよくなる様に進化などしていない。
・人間にとってよりよくなる事が宇宙の進化というなら、宇宙は人間を中心に回っていない事を自覚せよ。
・神が創造した世界は完全である為、世界の救済など必要なかったのである。
キリスト教は世界の救済を願ったが故に、無神論者だったと言える。
 
―自虐的な武器
・普段不当な扱いを受けていた者は、病気になった時、丁重な扱いを受けた事に喜びを感じ、体は不調であるに関わらず、無抵抗である事に、喜びを感じる者がいる。
・この様な者は弱者である様にふるまう事で丁重な扱いを受ける事に味を占め、仮病を使ったり、大げさに痛がったり、自らの不幸話を頼んでもいないのに話したり、涙を流す事で弱者のフリをする。
・「謙虚な人」、何か美徳の様に扱われているが、要は、自分を弱者の様に見せるという事が有効な手段である事を心得ている者の事であり、「弱者は何よりもいたわり守られるべきだ」というキリスト教的世界空間の中(すでに全世界に浸透している)において有効な手段である。
・弱者とは、強者を直接的に攻撃するのではなく、自らを落とし入れる事で、強者に罪の意識を植え付けさせる事で攻撃する。即ち、お前が私をこうさせたのだ、これはお前の責任だとでも言うように、精神的に狂った異常な行動をする様になったり、自傷的な行動に走ったり、社会的なルール(法律)を破る行為をしたり、最後の手段として命すら投げ打つ、すべては復讐の為に。即ち、自殺とは弱者の強者に対する異様な攻撃手段である。
この攻撃が有効なのは、既に全世界へと浸透している異様な空間(弱者は何よりも守られいたわれるべきで、それにより強者が落とし入れられるのも致し方ないという異様な思想空間)の中においてのみ有効な手段であり、彼(イエス・キリスト)が生まれる以前の世界において自殺など、ただの無価値でバカな死に方だった。(ちなみにイエス・キリストは自殺を禁止していた。彼の言説はすべて彼が死んだ後、残った者達に誤解されたのであり、強者へ対抗する有効な手段の書として誤って弱者に利用された。今日び全世界に浸透しているキリスト教的世界空間は彼が望んだ世界の事では無い)
・自殺に価値が持たれたのは神の死(即ち、宗教によらずこの異様な空間を信じる者の出現、)により成し遂げられた。
・しかし、このキリスト教的世界空間(弱者は何よりも守られいたわれるべきで、それにより強者が落とし入れられるのも致し方ないという異様な思想空間)はゼロから創造された物では無く、元々、人間に備わっていた赤ん坊や子供の様なか弱い者を守るという本能と、強者へ対する嫉妬という感情を引き伸ばし、ついには、弱者と強者の地位を転倒させた事による。(弱者を民衆に、強者を国家権力に置き換えてもいい)
・弱者は強者に対抗する力を持たない(弱者と呼ばれる条件)ので自らを武器とした。
・自らを犠牲にすればする程、強者への有効な攻撃手段となるのだ。
・弱者のフリをする事が有効となったこの異様な世界では、ついに強者までもが、自らを犠牲にし、弱者のフリをする様になった。即ち『謙虚』という美徳の名で。
 
―道徳性の本質
・弱者はしばしばこう叫ぶ。「団体は個人よりも優先されるべきである。」「一次的利益よりも永続的利益こそ優先されるべきだ」と。
・しかし、そう叫ぶのは弱者が強者でないがゆえである。
・つまり、弱者がそう叫ぶのは、自身の個人的利益を求め、自身の一次的利益を求めているからに他ならない。
・道徳的な事を叫ぶ者が、道徳的でないという理由はこういう所にある。
・即ち、道徳とは、弱者が作った、強者に対抗する為の手段であり、彼らが優先すべきは、道徳的な事では無く、自身の利益に他ならない。
 
―科学のやましさ
・かつて、科学とは本質を知ろうとすうる知への愛、即ち、哲学と同じ志を持つ者によって営まれていた。
・しかし、一度、科学というものが人間の利益や役立つ道具になると分かると、もはや本質を知るのは2の次、3の次、役に立つか立たないか、金になるか、ならないか等、ただただ人間の欲望を満たす手段と成り果てた。
・大学(アカデミア)の民営化など、もはや末期状態である。
・つまり、利益にならない事は学ぶなという事であり、知への冒涜である。アカデミアの創始者である愛知者プラトンが聞いたらなんと言うだろうか・・・アカデミアとは知への愛、即ち自然や宇宙、存在の本質、ただそれのみを知る事を目的とした神性な場所ではなかったか。
・もはや、自然や宇宙に対する驚愕や感謝を忘れ、自然や宇宙など人間の生活を便利にする道具としか思っていないのか。
・なるほど、そのような考えでは、論文の不正などが出てきても不思議ではない。またそのような考えでは、真理へは到底たどり着けないであろう。
・科学を志す者が生活を便利にしようだとか、何か人の為になるよな事をしようだとかゆめゆめ思わぬ事だ。そんな事、金儲けと名誉欲の塊である、資本家達に勝手にやらせておけばいい。
・遊ぶ事は、遊ぶ事以外に目的も意味も無い様に、知る事も知る事のみが目的であり、知ったらそれで終わりなのだ。科学と哲学は本質的な所では同じであり、愛知(フィロソフィア)で繋がっている。
 
―偽装された自殺
ソクラテスイエス・キリスト、彼らに共通するのは、不法という剣を借りて、自らを突き刺したのであり、あれらは、彼らの言説により不当に殺された様に見せかけた事である。
・即ち、自身の死によって、自らの言説を何か「真」なるものが在る様に思わせる事に成功した。
・しかし、今となっては、彼らが本当は何を知っていたかは分からない。死人に口なし。そのことで一層、彼らは、真実を知っていた者と思われている。
・彼らは、民衆の「死」への特別感や恐れを利用し、自身の言説を真実なるものに思わせたのであり、彼らは、死を何とも思ってはいなかったのであるから、名演技、名役者であったと言える。
 
―同一のものに対する色眼鏡
・ある者の言説や作品に自分の考えと似たものを感じると、この言説は正しいに違いない、この作品は素晴らしいに違いないと判断する。では後に、自身の考えや好みが変わった後で再び目にしたら?以前と正反対の評価をその言説や作品に与えるだろう。
・言説や作品へに対する他人の評価など、その人物のその時の考えや好みと比べられた相対的評価にすぎず、時、場合、状況によっていくらでも変化しうるものであるから、他人の評価を気にしたり、一喜一憂するのは愚かである。
・また、他人に評価されようと、他人の考えや好みに合わせるという行為も同様に愚かである。
・真に素晴らしい言説や作品というのは、自らの考えや好みを打ち砕き新しい世界を見せてくれるものであり、自らの考えや好みに寄り添うような言説や作品は、どこかつまらないく、たいした考えや作品ではない。
 
―芸術について
・芸術とは人間の理想を具現化して表現したものである。
・人間は不完全さを持つが故に、完全さを求める。
・各人が思い浮かべ理想とするものを、キャンパスで、音楽で、彫刻で、あらゆる方法で表現する。
・しかし、芸術家は自分の理想を具現化して表現したものが、自分の理想とするものと、かけ離れている事を誰よりもしっているのだ。
・なぜなら、彼らが芸術家として行動する以上、その理想は現実には存在しないのだと初めから敗北を認めている事に他ならないからである。
・即ち、彼らが芸術へと向ける力とは自身への慰めである。
 
―陰口を言う者への理解
・彼らは、人を傷つけるのが目的ではなく、むしろ逆で他人と共感し仲を深める事を目的としており、何か共通の話題が在れば何でもよいのである。
・それがたまたま「誰」であろうと大した問題ではなく重く受け止める必要はない。
・それに陰口を言う者もまた、彼の知らぬ所で、陰口を言われているだろうから。