―存在とは何か

真理への飽くなき追究

―サルだって言葉は話せるぞ。

―サルだって言葉は話せるぞ。
 
外に出ると、日本語を話しているのだが、何を言っているのか分からない人達ばかりである。
まるで、全員、日本語を話すサルなのではないかと思う事がある。
いや、実はサルのフリをしているだけなのか?
それとも本気なのか?
おそらく、他人のサル真似をしている内に、他人の真似をしているという事すら忘れ、これが私なのだと思い込んでしまったのだろう。
 
他人が何を言っているのか分からないのは、私の価値観と他者の価値観が根本的に違うからなのだろう。
他者からすれば私も、日本語を話すが何を言っているか分からない人なのだろう。
しかし、全員が私と同じ価値観を持った方がいいとは思わないし、私も他者の価値観に合わせようとも思わない。
 
人類全員が共通の価値観、思想を持つ社会は人間が古来より夢見た理想郷であろうが、私はそれを何か薄っぺらなつまらない世界に感じる。
特異性、特別性こそ、こそ世界の魅力なのであり
全てが美しいものであれば、我々は美しさというものを知らなかっただろうし
全てが秩序であれば、我々は秩序というものを知らなかっただろうし
全てが善であれば、我々は善というものを知らなかっただろうし
全てが私であれば、我々は私というものを知らなかっただろうし
全ての惑星が地球であれば、これ程に、神秘と驚愕を感じなかっただろうから。
 
世界とは対立的な存在によって成立しているのであり、対立的な存在なしにはあらゆるものは存在しない。
 
生が存在するのは死が存在するからであり
美しさが存在するのは醜さが存在するからであり
秩序が存在するのは混沌が存在するからであり
善が存在するのは悪が存在するからであり
私が存在するのは他者が存在するからである
 
対立的な存在の消滅は即ち、あらゆる存在の消滅を意味する。
 
対立的な存在を認め、感謝する事こそ正しい態度であり、対立的な存在を排除するのは愚かであり、そのまま破滅を意味する。
 
外に出ると日本語を話すが何をいっているか分からない人達ばかりだと初めに言ったが、私と全く違う価値観を認め、感謝こそすれ、それを排除したり、変えようとするのは愚かな行為なのだろう。