―存在とは何か

真理への飽くなき追究

愛とは何か?―ニーチェと青年の対話

愛とは何か?―ニーチェと青年の対話
 
青年「愛とは何でしょうか?人は愛しているとか愛されたいと言いますが、そもそも愛って何なのでしょうか?」
ニーチェ「愛するという場合は、何かを支配、所有する為の手段の事であり「力への意思」の事だ。愛されたいとは、要は、自らを大切にしろ、と言っているに過ぎない。どちらも愛では無い。」
青年「では、キリスト教の言う隣人愛こそ、本当の愛なのでしょうか。即ち、汝の敵を愛せよ。誰だろうが、愛する、これこそ、真実の愛なのでしょうか?」
ニーチェ「・・・・あはははは」
青年「一体どうされたのですか?」
ニーチェ「いや、君があまりに可笑しな事をいうからさ」
青年「どうして、可笑しな事なのですか?汝の敵を愛せよ、素晴らしい言葉だと思いますが」
ニーチェ「どうして、素晴らしいものか、そんな偽りの愛が。汝の敵を愛せよ、これはただの弱者の強者へ復讐する為の手段を述べているに過ぎない」
青年「どういう事です?」
ニーチェ「では、こんな場面を想像したまえ。あるクラスにいじめられっ子がいるとする。その子は、力ではどうしても、いじめっ子達にかなわないし、その子達を説得する事も出来ない。では、この子はどうするかと言うと、いじめっ子達やクラスの子達には知られないように、いやひっそりと知られる様に、いじめっ子達やクラスの子達の為に何か献身的な事をするに違いない。即ち、その子の中で価値転換を生じさせる事で、いじめっ子たちの優位性を劣等性に、自らの劣等性を優位性に転換する事で、自らの方が優れているのだと認めさせようとする。即ち、自らの価値分別の土俵において勝利を収める事で、自らを慰めるのだ。私は、毎日いじめられているのに、いじめっ子やクラスの為に、こんなに献身的な事をしている、ああ、自分は何て素晴らしい人間なのだろう、それに比べ、私をいじめる奴らや、クラスのみんなは何て下劣な人間なんだろうと冷笑するだろう。つまり、いじめっ子やクラスのみんなに人知れず献身的な行動、即ち愛するのは、単に、自分が「優越感」を感じる為であり、いじめっ子やクラスの敵を「軽蔑」する為の手段に過ぎないのだ。そして、いじめられている時でさえも、心の中で、ああなんて哀れな人達、私を殴る事であなた達の気が済むなら、いいでしょう存分に殴りなさいとでも言うように右のほほを殴られたら、左のほほも差し出す様になるだろう。すべては、自分の優越感を上げ、敵を軽蔑する為に。」
青年「つまりはキリスト教の言う「敵への愛」とは、自らの優越感を上げ、相手を軽蔑する為の手段に過ぎないという事ですか?」
ニーチェ「そうだ。あれ程までに、キリスト教の愛がもてはやされたのは、弱者の強者へ対抗する為の効果的な、かつ極めて強力な手段が書かれていたからに過ぎない。大体、敵を愛するという事がすでに矛盾しているではないか。何らかの悪意や憎しみが無ければ、敵とは言えない。なのに、愛するとは、本来の愛の事では無く、敵を攻撃する手段に過ぎない。イエス・キリストが本当に汝の『敵』を愛せよ、と言ったのかどうかは分からない。仮にそう言ったとしても、そのような意味では決してなかったであろう。彼もまた誤解されたのであり、本当のキリスト教は、彼が死んだ時に、もう終わってしまったのだ。」
青年「では、本来の愛とは何なのですか?」
ニーチェ「愛する、愛されるという、行為として用いられる「愛」は何らかの、支配したり、所有したり、優越感を感じたり軽蔑したりする為の手段の事であり、決して真実の愛の事では無い。愛とは一種の心の状態の事である。つまり、大いなる感謝でお互いに繋がっていると感じる心の状態の事だ。本質的にそのような感謝があるから、自然とやさしさやいたわりを向けざるを得ないのであって、感謝の心なくして行う、献身的な行動など偽りの愛に他ならない。」
青年「なるほど、愛の本質には『感謝』がある。即ち愛=感謝であるとも言えるという事ですね」
ニーチェ「そうだ。母子の愛とは、母親は子供の存在に対するおおいなる感謝で、子供は母親の存在に対する大いなる感謝でお互いに繋がっている状態の事である。存在するとは大いなる感謝で繋がっていると言う事に他ならない。」
青年「つまり、我々も存在している以上、誰かから常に愛で繋がっているという事ですか?」
ニーチェ「そうだ。考えてもみよ。この広大な宇宙において地球が存在し、我々が存在している驚愕的事実。仮に、それが宇宙の時間において桜の花が咲くがごとく、一瞬の出来事だとしても、現実的に我々は存在している。我々の存在とは宇宙の愛に他ならないではないか。この驚愕すべき出来事を前に、私は宇宙という存在に大いなる感謝を向けざるを得ない。私は常に、宇宙とおおいなる感謝で繋がっているのだ。即ち『存在』とは大いなる愛で繋がっている状態なのだ。」
青年「そうですね。地球や我々は、太陽の光なくして存在出来ません。そして太陽も、宇宙に光が生じなくては存在する事が出来なかった。つまり愛とは「光」とも言えるのではないでしょうか。」
ニーチェ「ああ、そうとも言えるかもしれんな。」