―存在とは何か

真理への飽くなき追究

私とは何か―西田幾多郎とウィトゲンシュタインの対話

私とは何か―西田幾多郎ウィトゲンシュタインの対話
 
西田「私とは何か」
ウィトゲンシュタイン「私がいう私と他者がいう私は、まったく違う私である」
西田「どういう事か」
ウィトゲンシュタイン「私が、『彼は痛みを感じているだろう』と言う事は出来るが、私が『私は痛みを感じているだろう』と言う事は冗談ではない限り、言えない。そもそも言う必要性が無い。前者は予測の域を越えないが、後者は予測の域を超え、現実的となっているからだ。さて、この違いは何により生じているのか。この違いを生じさせている「何か」こそ、私である事の本質に思えるのだが。」
西田「つまり、私も他者も身体と魂を持つという点で違いが無いのにも関わらず、違いが生じてしまう事の謎という事か」
ウィトゲンシュタイン「そうだ。こんな思考実験を考えてみよう。私は、今ここで、物質的にも霊魂的にもまったく同じ、L・ウィトゲンシュタイン1000体に分裂するとする。しかし、この中になぜか、唯一の私が存在してしまう。物質的にも、霊魂的にもまったく違いが無いのにも関わらず、違いが生じてしまう。つまり、私たらしめているのは、物質的でも霊魂的でもない、「何か」が関係している。その「何か」こそ、私と他者を隔てているのであり、その「何か」こそ、私の本質でもあり存在の本質でもあるのだ。」
西田「いかにもそうだろう。多くの者は、私とは「人格」の事だと勘違いしている。人格を規定しているのは身体、記憶、霊魂だが、いずれも私の事では無い。私とは、唯一、そこを原点として世界を開けている『場所』の事だ。」
ウィトゲンシュタイン「なるほど、先程の私の思考実験では、1000体のL・ウィトゲンシュタインは皆、同じ、人格を持ち、同じ身体と記憶と霊魂を持つが、なぜか、その中から、一人だけ、世界が唯一、その場所を原点として開かれている。物質的、霊魂的に違いが無いのにも関わらず!まさに、その原点こそが私の本質であると言えるわけだ。」
西田「そうだ。つまり、私とは唯一その場所から世界を開く原点の事であるから、物質的にも霊魂的にも一切の変化なく、私、即ち原点が消滅する事は考えられる。」
ウィトゲンシュタイン「その場合、どうなるのだ。」
西田「単純だ。私が他者になるだけである。即ち、物質的、霊魂的存在よりなる人物である事にまったく、変化はなく、ただ、その場所を原点として世界が開かれなくなるという事だ。だれもその変化に気づけない。ただ、この私の世界が消滅しただけである。即ち、その場所から世界を唯一開く「何か」の存在の消滅は、「無」を意味する。なぜなら、その物質的でも霊魂的でもない「何か」こそが、存在の本質であるからだ。物質的、霊魂的存在よりなる西田幾多朗なる人物はまったく変化する事無く、依然として存在しているが、ただこの世界が閉じる。存在はしているが、現実的には無となるのだ。他者は存在するが他者の痛みを感じる事が出来ないように、西田は存在するが西田の痛みを感じる事が出来ないようになるだけだ。」
ウィトゲンシュタイン「という事は、唯一、世界がその場所から開く原点の移動も考える事が出来るな。」
西田「しかし、この移動は有りえない。この有りえなさは、認識不可能という点での有りえなさの事だ。つまり、仮にありえたとしても、認識する事が出来ないので有りえたとはみなされないのだ。なぜなら、認識するのは霊魂による精神的作用であるが、物質的でも、霊魂的でも無い「何か」の移動は、霊魂により認識する事が不可能である。他者も私と同様に、世界は、唯一この場所を原点として開けていると言える様に、仮に、この「何か」が他者に移動した所で、同じ事を言うだけである。宇宙の中に無数に存在する、物質的、霊魂的存在。この物質的、霊魂的存在のどの場所から世界を唯一開くかは、無数の可能性があるはずだか、なぜか、この場所から唯一世界が開けている。原点の移動は有りえないから、この場所から世界が唯一開いているのは、宇宙の誕生から消滅の間においてたった一度きりである。霊魂の輪廻転生は可能であるが、世界を唯一、この場所から開く原点である「何か」の輪廻転生はありえない。認識や記憶は霊魂の精神的性質であるから、霊魂が別の生命体に移動したのであれば、「おお、私は依然、人間の西田であったが、今度は蝶になったか!」と認識する事は考えられるので輪廻転生は有りえる。しかし、物質的でも、霊魂的でもない、世界を開く原点である「何か」の移動は霊魂が移動した事では無い為、認識不可能である。故に輪廻転生したとしても、気づけない、つまり、輪廻転生は有りえないのだ。」
ウィトゲシュタイン「私もこの「何か」こそ、決して語りえない事だと言っているのです」
西田「物質的にも、霊魂的にも依存しない、世界を開く場所を決定する「何か」。存在の本質である「何か」。きっと神学者なら「神」と言うだろう。」
ウィトゲンシュタイン「偶然と言う者もいるでしょうね」
西田「偶然という言葉は必然と言う言葉がある時に初めて意味を持つものでしょう。つまり、必然も偶然も、ようは基準の変更、視点の変更の問題でいくらでも必然⇔偶然に変わりえるものであるので、どちらも同じものだと言えるでしょう。即ち、偶然と言えるのであれば、必然とも言えるのですよ」
ウィトゲンシュタイン「ええ、そうかもしれませんね。それではまた」