―存在とは何か

真理への飽くなき追究

―知識の断片(逆説的と言う事についてetc)

―知識の断片(逆説的と言う事についてetc
 
―分かる事と知る事の違い
・分かると言う事と知ると言う事の違い。
・分かるとは「分ける」と言う事であり、分別する言葉を使うという事である。
・言葉は書物や話を聞く事により、自身もその言葉を使い対象を分別し、分ける様になる。これが分かると言う事であるが、『知る』には程遠い。
・知るとは、もはや何の疑いもなく、分別している事に疑いを持ち、『何か?』と問う事により、本質を掴む事である。知るとは体験であり、他者から教えられるではなく、自らが「気づく」事である。
・故に人に何かを教える事は出来ない。自ら気づかせる手助けが出来るだけである。
・自転車の乗り方を教えても、乗れるようになる訳ではないのと同じである。
・変化する情報、分別された言葉を学ぶ事を『知る』とは言わない。
・自ら考え、本質に気づくという体験が『知る』という事である。
・しかし、本を読んだり他者の考えを学ぶ事も必要である。
孔子曰く、『学びて思わざれば、即ち危うし、思いて学ばざれば即ちくらし』
・即ち、学んでも考えなければ危ういし、考えでも学ばなければ自惚れや傲慢になると述べている。
 
―大いなる感謝
・生存において必要なものは全て大いなる自然、宇宙より受け取っている。
・即ち、食糧や水、住処(地球)であり、身体であり、そして何より、生存を最も豊かにする純粋な精神現象である。
・そして、大いなる自然、宇宙に驚愕する者には時に、悦ばしき知識も与えられる。
・私の物など、いったいどこを探しても無い。私というものがそもそも無い。考えや知識というものの発生源は不明である。知識はどこかから急に湧いてきた、どこかから急に降り注いできた、何かから急に与えられたのであり、それを注意深く、拾い上げ、整理するだけである。
・どうして、私の考えなどど言えるだろうか。すべては与えられたものである。自らの知識というのはあまりに、うぬぼれであり、傲慢である。
 
―真理の敵と仲間
・他者からの評価や名声や承認は真理にとって敵である。
・善悪や損得に基ずく価値観は真理にとって害である。
・うぬぼれ、虚栄心、傲慢、信念は嘘より、最も危険な敵である。
・そして謙虚、反論、疑念、弁証、論理は愛すべき仲間である。
・正しさへの誠実さ、そして、自分が信じる事への徹底的懐疑と破壊(執拗に、残酷に、血も涙もなく)する勇気は愛すべき友である。
 
 
―逆説的と言う事について
・相手の本心を知りたければ、相手が口にする事を逆の意味で受け取ってみるといい。
・わざわざ口にして信じさせようとする者は、少なからず、本心では逆の事を思っている事に他ならない。
・『私は○〇と思っている』と口にする者は、同時に『私は(本心では)○〇と思っていない』と叫んでいるようなものだ。
・自ら○〇と名乗る者は○〇ではないという逆説。自ら哲学者と名乗る者が、はたしてすぐれた哲学者であるだろうか?
・いったい、当たり前で自明な事をわざわざ信じていると口にする必要があるだろうか?
・信じると言う言葉が意味を持つのは疑っている時だけである。
・『私は神を信じている!』と口にする者は、『私は(本心では)神を疑っている!』と言っているのと同じである。
・自分の足を指して、「私はこれが足だと信じている」という者がいるだろうか?疑う必要が無い場合、信じるという言葉は用いられない。
・同様に、他者からの評価を求める者は、自分自身を評価する事が出来ない事の裏返しである。自分の事を認められない者は、他者から認められる事でその埋め合わせを行なおうとするが、その試みはしばしば失敗する。なぜなら、自分の事を一番よく知っているのは自分に他ならない。他者の評価とは誤診に他ならないからである。
・自分の考えに自信を持てない者ほど、いっそう熱心に声を張り上げ、演説し、また反論しようものなら牙をむき噛みつく。要は自分の考えに自信が持てないので、その分を他者から認めて貰う事で安心しようとしているだけなのだ。
・『私は幸福を求める』という者は『私は不幸である』と言っている逆説。
・幸福を求めると言う事は、自身が不幸である事を認めているという事である。
即ち、幸福を求める限り、幸福になる事は有りえない。
・幸福、不幸とは、相対的な物事であり、絶対的な物事では無い。つまり自身が幸福と思わなければ、決して幸福には成らないからだ。
・幸福を求めない者は幸福であると言う逆説。
・我々は自覚しなければいけない。言葉を口にする時、少なからず、逆の意味も伝えていると言う事に、そして本心では、逆の意味を感じていると言う事にも。
 
―友達の作り方
・友達が出来ないのは嫉妬心とうぬぼれのせいだ。
・友達を作りたければ嫉妬心とうぬぼれを無くせばすぐに作れる。
・友情において必要な事は、お互いの尊重だ。
・故に、沈黙が重要である。
・広大な自然の中でこれほど安心していられるのはなぜか?
・自然は、我々になんら意見しないからだ。
・真実の愛、真実の友情とは、自然、宇宙の愛の事である。
・即ち、あらゆる者に恵みを与えるが、何ら主張もせず、従属させる事も無く、支配もせず、所有もしない。
 
―得る事と失う事。
・何ら失う事無く、何かを得ようとする愚かさ。
・何かを失わなければ、何かを得る事は出来ない。
・失う事、得る事はどちらも同じ事であり、「保存則」の事である。
・故に、失うものが多いほど、その保存則により、得るものも多くなる。
・天才と呼ばれる者は、ある事には才気を発するが、それ以外の事は凡人以下である事が多い様に。盲目の者の感覚や聴覚が一般の何倍も研ぎ澄まされる様に。
 
―職業としての価値
・民衆の利便さの向上という点において、仕事の価値は無い。
・利便さとは、時間を生み出す必要の元に生れた。
・しかし、今や利便さの追求の為に時間を浪費している。
・即ち、時間を作る為に、時間を浪費するという愚かさ。
・人類は進化しているという誤診。
・人間の本質は何一つ変わってはいない。歴史を学べば明らかな様に。
・電気、ガス、水道、電話、インターネットやスマホ、これらが無いともはや生きていけない様になった現代人は、はたして進化と言えるのか?むしろ退化ではないのか?
・文明は麻薬だ。一度使えば止められず、そしていずれ、文明により身を滅ぼす。
・最後に残った職業としての価値は、無根拠に、無意味に、無条件に与えられたこの生に対し、架空の意味や価値を与え、しばしば、目をそらし考えないようにする事だ。
・なぜなら、意味や目的や価値がなくても生を肯定し生きていける程、強い人間はそう多くは無いからだ。
 
―善悪について
・『それは善い事だ』という者。これを正しく訳すと『それは私にとって善い事だ』と言う事に他ならない。
・『それは悪い事だ』という者。これを正しく訳すと『それは私にとって悪い事だ』という事に他ならない。
・同様に『それは正しい』という者。これを正しく訳すと、『それは私の意見と正しい』と言う事に他ならない。
・『それは違う』という者。これを正しく訳すと『それは私の意見と違う』という事に他ならない。
・つまり、『あなたの考えは違う』という者は、『(私の考えと)あなたの考えは違う』と言っている事になる為、『(あなたの考えと)私の考えは違う』と言っている事でもある為、『私の考えは違う』と同時に言っているという逆説。
・人間はしばしば、自分にとって善い事が、普遍的に善い事であり、自分が正しいと思うことが、普遍的に正しい事だという誤診を行う。
・道徳とは盲目的に信じられる物では無く、賢い利己心が根底に潜んでいるのであり、道徳的に行動する人は道徳的であるのではなく、利己的である者の事。
・道徳とは、疑ってはいけない!そう人々が信じこむ事により初めて力を持つ。
・道徳とは真理でも何でもない。道徳とは、社会の秩序を守るシステムであり、善なる嘘である。
・なぜ人を殺してはいけないか?という無意味な命題。
・すでに、殺してはいけないという信念の上に成り立っている。
・つまり、殺す事は自分にとって悪い事だと思っているからに他ならない。
・道徳とは何も難しい問題でも何でもない。
・自分にとって殺す事が善い事なら殺していいし、自分にとって殺す事が悪い事なら、殺さないほうがいい。ただそれだけの問題。
・この真理を述べると、それじゃバレなければ何をしてもいいって事じゃないか!そんな事じゃ社会の秩序が保てない!という者が必ず出てくる。
・つまり、社会の秩序が保てなくなと、それはいずれ、自分にとって悪い事になるので、多くの者は、子供や共同体の中で、とにかく道徳的であれ!と時には問答無用で力で認めさせる必要性が生じる。(死刑制度や法律)