―存在とは何か

真理への飽くなき追究

精神世界について―ニヒリストと神学者の対話。

精神世界について―ニヒリストと神学者の対話。
 
ニヒリスト「およそ、我々人間に価値や意味、目的などはないでしょうね。宇宙は無から生じ無へ帰る。混沌とした宇宙が無意味に無目的で無価値に生成と消滅を繰り返している。その混沌たる宇宙の中で、我々という存在は、ほんの一瞬の刹那的な、もろく、はかない存在だ。強者は弱者に駆逐される運命にある。なぜなら、強者に対し、弱者の方が圧倒的多数だからである。そして、強者となった弱者もいずれ圧倒的多数の弱者に駆逐されていく。強者とは同時に弱者であり、弱者とは同時に強者でもある。弱者と強者は常に同時であり、ただ流転の中に在るだけだ。宇宙の生成と消滅は同じものであり、流転の中にあるように。
我々、人間もただこの流転の中にあるだけだ。ただ、無限にその流転は繰り返され、そこに意味も価値も目的も無い。」
神学者「あなたは、この宇宙も、人類も、全ての存在は無価値だと?」
ニヒリスト「そうだ、意味や価値や目的などは、初めから存在するものではなく、人間の精神が、それらに意味や価値や意図を見出す事により、作り出した偽物の価値や意味や意図にすぎない。仮に、存在に意味や価値や意図があるとするなら、存在の神にしか知りようがない。我々がいくら考えたところで、それは、我々が思った事、つまり解釈にすぎない。」
神学者「つまり、この世界に価値はないと?」
ニヒリスト「そうだ。」
神学者「本当にそうでしょうか?あなたは、この世界に価値が無いと言っていますが、あなたは価値が無い事を価値だと思っているのではないですか?つまり、あなたも価値分別を行う、私と同じだと言う事ですよ。」
ニヒリスト「・・・いや違う!」
神学者「では何でそんな事わざわざ私にお話しするのですか?あなたが話したと言う事がまさしく、それを価値だと思っているからじゃないですか?話して価値が無い事をあなたはわざわざ話したとでも言うのですか?随分お暇な方ですね()
ニヒリスト「・・・」
神学者「だいたい。あなたが言葉を用いている時点で既に価値分別を行っているのですよ。なぜなら、言葉というのは、ある対象に価値や意味や意図を精神が見出し、それを他の対象と区別する為にラベル付けするモノですからね。つまり、あなたが言葉を使用しているという事は、その個々の言葉一つ一つにそれぞれ、別の価値分別を見出し、区別しているという事に他なりません。もしあなたが世界に一切、価値を見出していないのなら、あなたは言葉を理解出来ないハズですし、言葉を使う事も出来ないハズです。しかし、実際にあなたは言葉を理解出来、使用している。つまりあなたもあらゆる物事に価値や意味や意図を見出しているのですよ」
ニヒリスト「・・・たしかにそうかもしれない。精神が存在する以上、『対象に価値や意味や意図を見出し、他の対象と区別する。』という精神の性質からは逃れられないのかもしれない・・・しかし、だからこそ!私は、人間的な価値や意味や分別では真理は知る事が出来ないと考えているのだ。」
神学者「その結果が虚無主義、つまりニヒリストですか。しかし我々は完全なもの、無限なものという概念を理解する事が出来る。つまり完全で無限な存在である神は実在する。」
ニヒリスト「どうしてそう言えるのか?」
神学者「では一つ質問します。偶数と偶数を足して奇数になる組み合わせを教えて下さい。」
ニヒリスト「あはは、そんな組み合わせ在る訳ないだろう。」
神学者「そうです。解が無い。そう瞬時に答えが出せるのは、我々が無限という概念を理解しているに他なりません。仮にこれをONOFFつまり01のみで計算するコンピュータに計算させると、解が無いという回答を出す事は出来ません。コンピュータは永遠と偶数と偶数を足して奇数になる組み合わせを計算し続けるだけです。それはコンピュータに無限の概念が無いからです。我々の脳は、神経の活動電位のONOFFでのみ計算を行っています。コンピュータと比べ、回路や経路が脳は複雑だというだけで、基本的な計算方法であるONOFFはコンピュータと同じです。しかし、なぜ我々はコンピュータには出来ない無限の概念が理解できるのでしょう?それは脳という物質的なモノ以外に何か別の何かが在ると言う事に他なりません。その何かこそ、精神(魂)と呼ばれるものです。そして精神が無限、完全の概念を持つという事はすでに、無限、完全の存在は在ると言えます。無限、完全な存在が在るという事は神も存在するという事です。」
ニヒリスト「では、我々に精神が在るという事は神の精神も在ると言う事か?」
神学者「在ります。神の精神こそ、この現実的なリアルな精神世界がここから開けている事の謎の解明になると考えています。」
ニヒリスト「現実でリアルな精神世界がここから開けている事の謎とはなんだ?」
神学者「いいですか、仮にあなたのクローンを1000体用意し、ここに集まっているとします。さて、この中からどうやって自分を見つけ出しますか?」
ニヒリスト「は?そんなの楽勝ですよ。いくら姿や形、言っている事や振る舞いがまったく私と似ているとしても、クローンと私を間違えるなんてありえません。」
神学者「そうです。実は、この中からあなたを見つけ出すのはあなたしか出来ません。人間の身体を作り、人間の精神を作ったのが神だとしても、この中から、あなたを見つけ出す事は不可能です。なぜなら、この1000体のあなたのクローンにもあなたと同様に精神がありリアルな現実的な体験を行っており、外的に見れば、まったく区別する事が出来ないからです。しかし、あなたはそれが分かる。なぜなら、現実的でリアルな世界はあなたを原点として開けているからです。」
ニヒリスト「しかし、現実でリアルな世界が私から開けているのは、他のクローンも同様に口をそろえて言うでしょう。つまり、精神が肉体に宿るとかならずそのようになるという事ではないのですか?」
神学者「違います。精神が肉体に宿っているのは他のクローンすべてに言える事です。でもなぜか、他のクローンからでなく、ただあなたのみから、世界が開けている、その事が謎なのですよ。他のクローンにもあなた同様に、精神世界が存在する。精神世界の多重世界が繰り広げらている。精神世界の多重構造の中で唯一、ただ一つだけの精神世界を体験する事が出来る。しかし、なぜ私が体験するのはあらゆる精神世界の中で、この精神世界なのか?なぜただ一つの精神世界しか体験出来ないのか?なぜ他の精神世界は体験出来ないのか?それこそが驚愕すべき謎なのですよ。」
ニヒリスト「他者の精神世界を体験出来ないのは、神経、つまり脳が繋がっていないからでは?」
神学者「違います。仮に、私とあなたの脳の神経をつなぎ、私の右手を切るとします。その時、あなたは私の右手を切られたと同時に痛みを感じるかもしれませんが、それはあなたが感じた痛みです。私が感じた痛みではありません。精神というのは主観性の性質を持っています。仮にあなたの身体や脳に全く変化が無く、ただ痛みが生じたとしても、あなたは、自分が感じた痛みだと認識します。私とは身体とか脳の反応とかはまったく関係なく、このリアルで現実的で世界がここから開けている原点、それが私なのですから。」
ニヒリスト「いや痛みが生じるのは神経の線維が興奮するからだろう。神経の線維が興奮しなければ痛みは生じないよ」
神学者「では1000人集まったクローンとあなたを含め、全員の右手の全く同じ個所を同時に針で刺すとします。今、まさに全員の神経に線維が興奮しました。さぁ、神経の線維が興奮すると痛みが生じるというのなら、なぜ、全員に生じている痛みの中でも、それを体験する事が出来るのはただ一人の痛みだけなのか?なぜ体験できる痛みと体験出来ない痛みがあるのか?仮に神経の線維が興奮する事により、痛みが生じると言う事が本当だとしても、体験出来る痛みと、体験出来ない痛みが在る事の理由にはなりません。」
ニヒリスト「うん、だんだん問題の意味が理解できたぞ。つまり全ての精神は、その精神を原点として世界が開けている。つまりあらゆる精神がその精神を原点として、あらゆる精神世界が存在している。つまり精神世界が多重に存在している。しかし、その中でも現実的に開けている精神世界はなぜかこれという謎。他の精神もそこを原点として世界が開けているのだから、他の精神世界を原点として世界が開けていても良かったはずだ、しかし、現実にはこの1点に収束されている。それが驚愕すべき謎だという事ですね。」
神学者「そうです。どこの精神を原点とし世界を開くかは精神の数だけ可能性が在ると言う事です。ちょうど波として空間にゆらいでいるエネルギーが収束して粒子となる時、なぜ他の座標軸ではなく、そこの座標軸に粒子として収束したのか?という謎に似ています。波として存在するエネルギーが収束して粒子になるのは、観測、即ち我々の精神が関与しています。同様に、あらゆる精神世界の可能性の中で、ある一点の精神の原点に収束するのは、神の観測、即ち神の精神が関与する事と考えています。」
ニヒリスト「なるほど。論理が飛躍しすぎている様に感じるが、問題自体はなんとなくわかった。つまり、主観となる精神は他の精神でも良かったのに、なぜこの精神なのか?という謎か。・・・私もすこし考えてみよう」
神学者「ええ、それではまた。」