―存在とは何か

真理への飽くなき追究

言語について―ウィトゲンシュタインとキリスト教徒の対話

言語について―ウィトゲンシュタインキリスト教徒の対話
 
キリスト教徒「言葉とは神です。光在れ、神がそう言葉にされた事により世界は生じた。
言葉が無ければ、存在はありません。即ち私とは言葉であり、存在とは言葉です。」
ウィトゲンシュタイン「あはは、君は言語をまるで神のように思っている訳だね。でも言語があるから私が生じるというのは本当だろうか?」
キリスト教徒「どういう事です?私とは何か?それは言葉です。まず言葉が先に在り、その後に、我々が私の意味や価値、目的を付けるのであって、逆はありません。先程も言ったように、世界が先にあったのではなく、言葉が先にあり、その後に世界が在ったのです。」
ウィトゲンシュタイン「では仮に、私に5感のリアルな感覚が無いとする。その状態で私という言語を知っても、私とは何の対象を指すか理解出来ると思いますか?私とは言葉ではありません。このリアルな感覚の事です。」
キリスト教徒「いや、仮に五感が無くても、言葉が在る。つまりこの言葉こそ私だと思えるはずです。言葉を用いて考える事が出来ます。即ち、考えが私なのだと気づく事になるでしょう。」
ウィトゲンシュタイン「あはは面白い事をいうね。まず言葉とは実在するものだ。あなたは実在は本質に先立つと考えているようだが、どうして本質より実在が先立つのか?言葉の本質とは、意味や意図の事だ。我々に意味や意図が無く、言葉だけが先に在ったとする。つまり本質より、実在が先立つとする。その場合、我々が発する言語は意味や意図が含まれていないただのでたらめな記号の連続である。意味や意図の本質よりも言葉が先だって存在する等ありえない。5感や感情、意味や意図の本質があって、その後に言葉が生じるのだ。逆は無い。」
キリスト教徒「どうしてそう断言できるのか?」
ウィトゲンシュタイン「君は世界にはあらゆる言語が存在している事を知っているね?」
キリスト教徒「ええ、神は、人類が同じ考えを共有しないように、バベルの塔を壊し、言葉を分断されました。」

ウィトゲンシュタイン「今はその事はいい。とにかく、我々が5感で感じた対象に何か意味や意図を見出した時、それは言葉になるという事を言いたいのだ。つまり、言葉の存在の大前提に5感でリアルな感覚が存在する→そこに意図や意味を見出す→それらを区別する為に言葉が存在する。という流れで逆は無い。また、意味や意図を見出す事は、世界中の分化や民族の違いによって様々だ。日本では蝶と蛾は区別しているが、フランスでは同じpapillonで区別はしていない。同じく妹と姉を日本では区別しているが、英語ではどちらもsisiterと表記される。このような言語の違いは無数にあり、いずれも、そこに意味や意図や価値を見出すか/見出さないか、つまり区別する必要性があるか/ないかの違いなのだ。言語とは、5感で感じた対象に、意味や意図や価値を見出し、他の対象と区別する必要性の上に成り立つのだ。区別する必要性の元に言語は生まれたのであり、言語がまずあったから、区別する必要性が生じたのではない。」

キリスト教徒「では、仮に対象に意味や意図や価値を見出さなかったら、我々はその対象を他の対象と区別しない事になるという事ですか?つまり意味や意図や価値を見出さなければ言葉は存在しないとおっしゃるのですか?ロゴス(言葉)を愚弄するのもいい加減にしてください!」

ウィトゲンシュタイン「別に愚弄などしていません。私はただ事実を述べているだけです。我々は人間と犬やアリを区別していますよね。それは、5感の対象となるソレらにそれぞれ別の意味や価値や意図を見出し、区別する必要性が生じたから、人間、犬、アリという言葉を作って区別したんです。言葉がまず先に在って、それから区別したのではありません。

仮に地球を侵略しにきた宇宙人がいたとしましょう。彼らは、地球の生命体にそれぞれ価値や意味や意図を見いだせず、全て「下等種族」で一括りにしてしまい、人間と犬とアリを区別する必要性がないので、我々に対応する個別の言葉は存在しない事になります。事実、我々もそうではないですか。普段、道端のアリを見ても多少大きさの違いや形の違いがあっても、全て「アリ」と一括りにしているではないですか。それらを別々に区別しているのは、形や色や触覚の違いに意味や意図や価値を見出し、区別する必要があると判断した生物学者だけです。言葉が在るという事はつまり、そこに意図や意味や価値を見出したという事に他ならない。逆に言えば、世界に意味や価値や意図を見出せなければ、世界に言葉は無い。対象に意図や意味や価値を見出す=それらを他と区別する=言葉が存在するという事なのです。『存在』が在るのは、我々が『存在』に対し、意味や意図や価値を見出したからです。我々が『存在』に意味や価値や意図を見出さなければ『存在』は『無い』。もし、神が全てを作ったのなら神は、人間やアリや犬や石ころを区別しない。すべては自分が作った世界の一部、つまり全てを「世界」の一括りにしてしまうからだ。もし、この世界の物質や色や臭いや景色や感情や理論(考え)が全て精神現象だとするなら、物質や理論や感情を区別する必要はない。すべて「精神」の一括りに出来るからだ。

もし、存在が無より生じ、無が存在より生じ、存在と無が流転しているのなら、存在と無は区別する必要がない。つまり存在と無という言葉は消滅する。どちらも同じものだからだ。」

キリスト教徒「あなたが言っている事は、何を言っているかさっぱりですよ。気でも狂ったのか」

ウィトゲンシュタイン「当たり前だ。私が言葉にする前の意図や意味や考えが他者に正確に伝わるという事は有りえない。意図や意味や考えが言葉に変換された時、私の意図や意味や考えは消滅する。私の発した言葉を聞いたあなたは、私の意味や意図や考えを理解する事は不可能だ。仮に私の言った事をあなたが聞いて、私の考えや意図が分かったと言ったと所で、それはあなたが思った事、あなたが考えた事である。言語とはこういう構造になっているのだ。自分の考えや意図が相手に伝わっているというのは勘違いだ。言語とは本質的に、自分が対象に意味や意図や価値を見出し、区別するモノであり、他者に自分の考

えや意図や価値を伝えるモノではない。」

キリスト教徒「つまりどういう事です。我々がこうして対話している事はまったくもって無駄であると?」

ウィトゲンシュタイン「そうだ、無駄だ。言語を伝えても、お互い、解釈し合うだけで、対話とは不毛なのだ。言葉とは本質的に自身と対話するものだ。言葉とは語り得ぬモノなのだ。語った時、もはや語った本人の意図や意味や価値は虚構と化し、騙る事になる。」

キリスト教徒「あはは、言葉を語るなと?」                                                         

ウィトゲンシュタイン「そうだ。語り得ぬ事には沈黙せよ」