―存在とは何か

真理への飽くなき追究

世界について―カントとヘーゲルの対話

カント「やあ、君はヘーゲルじゃないか。」
ヘーゲル「そういう、あなたはカントですね。どうです、少し、お茶でもしませんか。」
カント「それはいい、お気に入りの喫茶店がある。そこにいこう」
ヘーゲル「あなたは、人間の認識についてどう考えているのか?」
カント「人間の認識とは誤診以外の何ものでもない。」
ヘーゲル「誤診?つまり、正しい認識ではないと?」
カント「そうだ。我々の精神は世界を認識する。しかし、我々が認識したこの世界は、認識する前の世界には程遠い。」
ヘーゲル「ほう、詳しく教えてくれ」
カント「精神とは、世界を認識し体験する為の変換装置と考える。我々が認識しているこの世界は、認識される前の世界を、精神により変換した世界、つまり分別世界の事だ。例えば、私が今こうして、自分の考えを、言語に変換され、それをあなたが聞く事になるが、もはや、私の考えは言語により変換された事により、私の意図や考えが正確にあなたに伝わるという事は不可能になる。いくら、私の考えが分かったとあなたが言った所で、それはあなたが考えた事だ。私が痛みを感じてそれを「イタイ」という言語に変換した所で、私の痛みをあなたが正確に認識出来ないように、ちょうど世界もそのようになっているのだ。変換する前の世界を私は「モノ自体」と呼んでいるが、「モノ自体」の世界を精神により変換して、経験、認識可能にしているが、我々は「モノ自体」つまり真の世界を知る事は絶対に不可能である、それは解釈にすぎない。そして、我々が呼んでいる物理法則や原則なども、我々が変換した後のこの世界の事の事を述べているにすぎず、人間の精神世界にだけ通用するローカルな法則、原則にすぎず、真の世界では通用しないどころか、他の生命体の精神世界ではまったく通用しない。仮に、我々よりも、高次元に世界を変換し、我々が認識不可能な事も認識している生命体に「はぁ?12次元空間においてX力が働いているなんて常識でしょ?」なんて言われても我々にはチンプンカンプンなのだ。つまり、我々が変換し認識するこの世界での真理なんて、普遍的な事でもまったくなく、真の世界の法則には程遠いんだよ。」
ヘーゲル「つまり、精神とは、世界を認識、経験可能にする変換装置だと考えているのかい」

カント「そうだ。世界とはこの図ような構造をしている。

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人間の精神世界は、真の世界を人間の精神が変換した世界であり、我々が見つける、法則や意味や価値などは、人間の精神世界でのみ通用する事であり、真の世界の法則には程遠い。我々の経験や認識にもとずいて生じている、物質や空間、時間という観念すら疑わしい。」

ヘーゲル「では真の世界とはどのような構造になっていると考えるのだ。」

カント「真の世界とは、無変換のありのままの世界であり、仮にありのままに認識出来る存在がいるとしたら神だ。精神で分別される前の世界であり、無分別世界の事。つまり、無味、無臭、無色、無形、無意味、無価値、無対立、無時間、無空間、混沌とした世界の事だ。」

ヘーゲル「でも、あなたが言う、モノ自体、つまり、変換される前の世界っていうのも、あなたが考えた事だ。つまり、結局、考えの一部でしょう?この世界の他に別の世界があるとかいっても、この世界で考えられている事、つまり、この世界の一部にすぎないじゃないか。別の世界とかややこしい事考えないで、世界とは、この世界しか無いって考えた方がいいでしょう。オッカムのカミソリを知っているでしょう?複雑な事よりも単純にシンプルに考えてみる事の方が重要なんじゃないの?」

カント「いやいや、精神とは世界を認識するものなんだから、認識したこの世界とは別に認識する前の世界が存在しないというのは、おかしいでしょう?」

ヘーゲル「あなたは、二元論的な考えで世界を捉えているようですね。つまり、認識する前の世界と認識した後の世界。物質とそれを認識する精神。つまり、物質と精神は別々なのだから、人間の精神が存在しなくても、モノ自体は存在すると。本当にそうでしょうか?

精神が存在せずして、どうして物質が存ると言えるのですか?見る事も出来ず、触れる事も出来ず、聞く事も出来ず、味わう事も出来ず、考える事も出来ないのに、どうしてそこにモノが在ると言えるのですか?むしろモノとは精神の現象の一部にすぎない、つまり精神とは世界を認識する物では無く、精神=世界、と考えれば、もう一つの世界とかややこしい事考えなくても済むんじゃないですか?」

カント「いやいや、物質は重さがあるし、形もあるが、精神には重さもないし、形も無い。だいたい、物質(脳)と精神(魂)はどのような相互作用が働いているのかね?」

ヘーゲル「物質と精神にどのような相互作用が働いているのかというのは問題になりません。それは主観と対象を区別している二元論的な考えに縛られているからです。対立物の一致、即ち弁証法を繰り返し、対立を超越していく事により解決する事が可能です。即ち主観と客観、存在と無、物質と精神、認識するモノとされるモノの対立は解消され、あなたがいう本当の世界(モノ自体)の問題も解決されます。あらゆる対立物を一致させていき、1に還元された精神世界を私は絶対精神と呼んでいます。人間の精神はこの絶対精神になるべく、存在しているのです。」

カント「いや、人間の精神は人間が自ら作り出した物では無い。天から作られた我々の精神の目的や意味や価値をどうして我々が決めれると言うのだ?」

ヘーゲル「違う。確かに意味や目的や価値というのは主観(精神)と客観(モノ)の対立が生じているからであるが、それらの対立を超越させていく事により、主観と客観の区別か解消し、世界は1となり絶対精神となる。」

カント「それはあなたが思った事だ。それを証明する手立てはない。」

ヘーゲル「あなたは、人間は自然から作られたのだから自然から作られた人間が自身の目的を決める事は出来ないと言ったが、人間や自然も我々の解釈でしかないではないか。つまり在るのは精神だけ、精神だけが実在する。人間と自然という対立が無くなれば、そのような問題も生じない。」

カント「対立物の一致ですか。弁証法について具体的に教えてくれませんか?」

ヘーゲル「わかりました。まず、生と死、つまり始まりと終わりは同じものでありどちらも流転の事です。」

カント「どういう事ですか」

ヘーゲル「つまり、生は死なしでは存在せず、死は生なしに存在しない。常に同時に存在するものであり、同じもの、つまり元々、流転の事を分けて生と死に区別しただけと言う事です。この世界のあらゆる対立物とは一致するものであり、常に同時に存在し、流転の中に在る。この考えは、中国の太極図で示す事も可能です。実は弁証法による対立の超越により世界を1なる絶対精神にするという考えは中国の老荘思想や釈迦の哲学に通じる所があるのです。」
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カント「なるほど・・・私が認識不可能と考えていた、精神により変換する以前の真の世界も、ちょうど無分別の世界だと考えていたので、弁証法により、認識可能となるかもしれません。」

ヘーゲル「ええ、科学においては、今までは対立していた動と静は同じ事である事や、粒子と波も同じ事である事が分かってきています。科学も一つの弁証法であると考える事も出来ます。」

カント「なるほど・・・おや、もうこんな時間だ。それでは、また今度ゆっくりと話しましょう。」

ヘーゲル「はい、それではまた。」