―存在とは何か

真理への飽くなき追究

金について―聖人はこう言った

ある人里離れた、森に聖人がひっそりと暮らしていた。
そこへ、一人の男がやってきて聖人に訪ねた。
男「一つあなたに聞きたい事がある。あなたもご存じの通り、しょせん世の中金、金が全てだという事はお認めになりますよね。保釈金、賠償金、慰謝料、何だかんだといって、悪い事をしても、金さえあれば解決出来てしまうのですからね!金があれば何でも出来る、何でも手に入る。私は金がもっと欲しい。あなたは何でもご存じだと聞いたので、一つ、金が楽にもっと沢山手に入る方法を伺いにきたのです。どうか教えて下さい。」
聖人はこう言った。
「なんとまぁ下らない事よくもまぁべらべらと喋る者ですね。
あなたは、どうやら、金が最も価値がある物だと思われているようだが、どうして
金に価値があるといえようか?
あなたは、金があれば何でもできると思われているようだが、どうしてそんな事が言えるのか?
金があれば、何でも手に入ると言うが
金があっても、商品が無ければ意味がないではないか
その商品は、あなたが作った物でもでない。
あなた以外の人の力が無ければ金は無力ではないか。
あなたは金に価値があると思っているが、価値判断の分別を行う『心』が無ければ、あなたは金に価値があるという事すら言えないのだ。
つまり、金など、商品や他者の力、心が無ければまったく無力であり、仮に価値を付けるならば、これらの内最も下に位置する部類である。
 
何かを得るという事は
何かを失うという事でもある。
金であらゆる物を所有する喜びが大きいという事は
それを失う時の苦しみも大きいと言う事だ。
 
持っているものが多くて満足する者より
必要なものが少なくて満足する者のほうが尊い
必要なものが少なくて満足する者より
何も持たなくても満足する者の方が尊い
 
自然を見よ
彼らは、今日、その日、必要な物、それが手に入れば、事足りている。
彼らには何も失う者が無いから、あれ程、安らかに眠るのだ。
 
人間は、未来の事ばかりを考え、未来に必要であろう物を血眼になって探し、求める。
未来に必要な物を集める事が、今を生きる事の目的となり、今を生きる事はない。
過去や、未来は今が在るからこそ語りえる物だ。
今無しには、過去や、未来は存在しないのだ
過去や、未来は今にあるのだ。
今しかないのだ。
彼らは不確実な未来の為に生き、確実に存在する今を生きてはいない。
本末転倒である。およそ安らかに眠れる日など来ないであろう。
 
物や社会や他者や評価等のの外事に捉われ自分自身を見失うからそうなるのだ。
汝自身を知れ
物や金に価値を与えているものは私、即ち心である。
心がそれらを価値と見なさなければ、すべて無価値である
心が無ければ、それらは全て虚構である。
 
ならば、金や物よりも心が重要であるものは明白であろう。
 
そんな当たり前の事にも、気づかないで、虚構の価値を求めて毎日、忙しいフリをする者の愚かな事よ。
寝る間も惜しんで、ビジネススキル、要は金儲けの技術の習得の為に時間と心身を浪費させ、考える事を止めた者の愚かな事よ
彼らは本質に気づく事なく、金や地位、評価、社会などの作り事の価値に縛られ、その生を終えるのだ。最後に彼らに残るのは何か?何も無い。
 
死者に金を添える者がいるだろうか。
死者には花を添えるものだ。
死者は金を握りしめるだろうか
最期に握りしめるのは人の手だ
死者は最後に金の事を思うだろうか
最後に思うのは自身の魂である
 
ビジネススキルなどの金儲けの技術を磨くより
己自身を知り、魂を磨く事の方が重要であるのは当たり前ではないか
 
世俗のあらゆる下らないもの、一切
見るな
聞くな
思うな
 
私は、あなたのような世俗の醜い心に触れると、自身の精神が摩耗していくのを感じる。
だから、この人里はなれた所に身を置いているのだ。
君、もう帰ってくれ。」
 
聖人はこう言った。