―存在とは何か

真理への飽くなき追究

私とは何か?―ウィトゲンシュタインと神経学者の対話

―登場人物
神経学者
 
ウィトゲンシュタイン「こんにちは、初めまして」
神経学者「お会いできて光栄ですよ、ウィトゲンシュタインさん。前からぜひとも、あなたとお話をしたいと思っていましたのでね。」
ウィトゲンシュタイン「私も、あなたの様な気鋭なる学者さんと、議論するのは、楽しみですよ。所で、今日は、なぜ私と?」
神経学者「いや、あなたは『私』という事に関してどういう考えをお持ちなのか一個人として、そして神経学者として興味があるのですよ!」
ウィトゲンシュタイン「・・・なるほど。つまりあなたが聞きたい事はつまり、語り得ない事を語れとおっしゃるのですね。」
神経学者「そうです。つまり私が聞きたいのは『私とは何か?』という事です。」
ウィトゲンシュタイン「そうですか、あなたがそうまで望むのなら、私も語る、いやもはや語りえない事を語る訳ですから、『騙る』しかないみたいですね。」
神経学者「そうです、どうぞ話してください!所で、どうして『私とは語りえない事』などとおっしゃるのですか?あなたは私という言葉を使った事が無いのですか?」
ウィトゲンシュタイン「それでは、お聞きしますが、私が『私』と述べる時、あなたは、私が言った『私』とは何の事を指しているとお考えですか?」
神経学者「あはは。面白い事をお聞きになるのですね。あなたが述べる『私』とは『ウィトゲンシュタインさん』の事、それ以外に何がありましょうか?」
ウィトゲンシュタイン「では、その『ウィトゲンシュタイン』とは何の事ですか?」
神経学者「え?ウィトゲンシュタインさんはウィトゲンシュタインさんでしょう?」
ウィトゲンシュタイン「ですから、そのウィトゲンシュタインとは何を指してそう呼んでいるのですか?」
神経学者「それは、あなたのその身体を指して、『ウィトゲンシュタイン』と名付けているのですよ。」
ウィトゲンシュタイン「そうですね。つまり、『Lウィトゲンシュタイン』という名前は、他人がこの身体を他の身体と区別する為に付けた名前。それが事実です。」
神経学者「ええ、それはもちろんです。」
ウィトゲンシュタイン「つまり、私が述べる『私』が『ウィトゲンシュタイン』というのは間違いになります。」
神経学者「え?どういう事ですか?あなたはウィトゲンシュタインさんでしょう?」
ウィトゲンシュタイン「私が『私』と述べた時、それは他人にとっては、このウィトゲンシュタインの身体を指す、というのは間違っていません。しかし、私が『私』と述べた時、それは『私』にとっては、この身体を指してはいません。つまり、身体にラベル付けされた、『Lウィトゲンシュタイン』ではないのです。」
神経学者「では、あなたが『私』と述べた時、あなたにとって『私』とは何を指しているのです?」
ウィトゲンシュタイン「リアルな感覚を体験する者を指しています。つまり私とはリアルな感覚を体験する一人の被体験者となります。」
神経学者「え?リアルな感覚を体験しているのはウィトゲンシュタインさんの身体では無いのですか?」
ウィトゲンシュタイン「違います。なぜなら、私のリアルな感覚と、身体は別に連動してしる必要性はないのですから。夢を思いだして頂ければ理解しやすいと思います。夢の中で私がリアルに走っている体験をしているとします。しかし別にこのウィトゲンシュタインの身体が実際に動いている訳ではありません。逆に、身体がありありと痛みを感じている様にふるまっても、実際に痛みを感じなければ、『私は痛みを感じている』とは言えません。それはあらゆる感覚に対しても言えます。Lウィトゲンシュタインの身体が、楽しんでいる様にふるまったり、怒っている様にふるまったり、悲しんでいる様にふるまったり、臭いを感じている様にふるまったり、景色を見ているようにふるまったりしていても、実際にリアルな感情や臭いや景色を感じなければ、『私』は存在しません。なぜなら、身体は、楽しんだり、怒ったり、悲しんだり、臭いを感じている様にふるまっているが、実際にはそのリアルな感情を体験できない場合、それらを我々は『他人』と呼び、『私』とは呼んでいないからです。つまり、『他人』と『私』の違いは、リアルな体験を感じるか、感じないかの違いであるといえるからです。『他人』と『私』の同じ所は、リアルな体験をしている様にふるまっている身体があるという事になります。つまり、『リアルな体験が私』なのであって、リアルな体験をしている様にふるまっているこのLウィトゲンシュタインという身体は『他人と同じ』なのです。」
神経学者「なんと!あなたはリアルな体験が私であって、身体は他人だとおっしゃるのですか!」
ウィトゲンシュタイン「そうです。仮に、私は今、鏡を見ているとします。鏡に写るこの身体がLウィトゲンシュタインから、あなたや、犬や、アリに変わっても、リアルな視覚を体験している事に変わりがないのであれば、私である事に一切関係はありません。」
神経学者「つまり、あなたは言いたい事は、私であるという事は、リアルな体験だけが全てだとおっしゃるのですね?つまり身体が仮に無くなろうとも、リアルな体験をしていれば私であることに変わりがないと」
ウィトゲンシュタイン「そうです、仮にこのLウィトゲンシュタインと名付けられた身体がなかろうと、リアルな体験をしていれば私は存在します。」
神経学者「ですが、私はどうも、そのリアルな体験と身体には強い関係性があるように思えるのです。」
ウィトゲンシュタイン「と、いいますと?」
神経学者「それではお聞きしますが、あなたは、リアルな体験と身体は夢の中では別ですが、起きている間は連動している事を認めますね?身体の一部である指を切ったら痛みを『感じ』ますよね?つまり、指を切ったから、痛みを感じた。つまり、身体が無ければ、リアルな痛みを感じる事も出来なかった。つまり、身体が無ければ、リアルな体験は生じないのですから、身体が無ければ私も生じないという事ではないのでしょうか?」
ウィトゲンシュタイン「あなたは指を切った→痛みを感じた、とおっしゃっていますが、どうしてそう言い切れるのですか?指を切った→痛みを感じ『ない』という場合も想定できるのではないですか?現に夢の中で指に痛みを感じた→実際の身体の指は切れてはいない、という場合もありうるのですから。つまり、身体がなければ、リアルな体験は生じないとは言い切れません。」
神経学者「本当にそう言い切れるでしょうか?私は神経学者の仕事上、実際に、人間の脳に電極を刺す場合もあります。もちろん、患者さんの治療の目的でです。脳の体性感覚野という領域に電極を刺すと、実際に体を触られているように感じるとおっしゃいますし、視覚野に電極を刺すと夢で見るようにリアルに実際には目の前にない景色が見えたりするとおっしゃいますし、島皮質という領域に電極を刺すとリアルな痛みを感じるとおっしゃいます。つまり、あなたがさっき言われたように、指が切れていなくても、脳を刺激すれば指に痛みを感じる訳です。つまり、脳を刺激すれば、リアルな体験は生じるのです。夢の場合も、指にリアルな痛みを感じたのは、実際に指が切れた訳では無く、脳の島皮質が活性化したからと説明出来るのです。脳は身体の一部です。つまり、身体である脳が無ければ、リアルな体験は生じません。つまり脳が無ければ私は生じないと思えるのですがいかがですか?。」
ウィトゲンシュタイン「まず、疑問に思った点は、『患者の脳を電極で刺激するとリアルな体験を感じるとおっしゃた』、という点です。本当に電極を刺された患者はリアルな体験を感じていると言えますか?リアルな体験を感じているようにふるまっているだけかもしれません。これは私以外のすべての他人に言える事ですが、いくら他人がリアルな体験を感じていると言った所で、私がそれを感じる事は不可能です。故に、他人にリアルな体験がある、つまり心があると確信する事は出来ないという事です。確信する事が出来ない以上、他人にリアルな体験があると言う事は誤り、いや無意味であるといえます。」
神経学者「そんなに信じる事ができないなら、自分自身で、電極を脳に刺してみればいい。そうすれば確信する事ができるでしょう?()
ウィトゲンシュタイン「その場合、電極を脳にさして痛みを感じたとしても、前と話は同じです。つまり、指を切った→痛みを感じたとは言い切れない様に、電極を刺した→痛みを感じたとは言い切れません。」
神経学者「なぜですか?」
ウィトゲシュタイン「電極を脳に刺すと言う事は、電極をさした脳の領域を活性化させたという事ですね?」
神経学者「そうです。電流を流す事により、ニューロンの活動電位を活性化させます」
ウィトゲンシュタイン「つまり、脳が活性化した→痛みを感じたと主張されている訳ですが、脳が活性化した→痛みを感じたとは言えないという事です。痛みを感じた→脳が活性化したとも言える訳ですから。これは、身体(脳)とリアルな体験(心)の関係性に関わる事ですが、なぜ、身体(脳)とリアルな体験(心)は関係性があるのか?という『謎』です。分からない以上、脳の活性化→リアルな体験とは断言できないという事です。もちろんリアルな体験→脳の活性化ともいえません。むしろ、このどちらの主張も内包する脳の活性化⇔リアルな体験の『相互作用』と言う方がよい正しい理論と言えるでしょう。」
神経学者「なるほど、確かに、脳が活性化するからリアルな体験が生じるのだという一方的な主張は、早急な決断だったかもしれません。」
ウィトゲンシュタイン「ですが、これで、少しは私が言ったことが理解できたのではないでしょうか?つまり、私が述べる『私』は、『私』にとってはこの身体であるLウィトゲンシュタインの事では無く、リアルな体験こそが唯一の私なのだと言う事が」
神経学者「名前の付けられたこの身体はリアルな体験をしているふりをしている他人と同じだと言う事でしたね。しかし、あなたがおっしゃる事がイマイチまだよく分からないのです。」
ウィトゲンシュタイン「では次の場合はどうでしょうか。仮に今、この身体と記憶がまったく同じLウィトゲンシュタインが2つに分裂するとします。さて分裂した後、どちらが本当の『私』だと思いますか?」
神経学者「うーん。私から見れば、どちらも同じウィトゲンシュタインさんに思えます。ですが、おそらく、本人達にとっては、お互い別人に思えるのでしょうね。なぜなら、分裂したもう片方の自分が刺されても痛くもかゆくも無いのですから。」
ウィトゲンシュタイン「では、分裂したもう片方の自分が刺されたら、『私』も痛みを感じるとしたらどうですか?つまりもう片方の自分が感じているであろう体験を私もリアルに体験出来るとしたら?」
神経学者「それは、もう片方の自分も『私』と思うのではないでしょうか?なぜならもう片方の自分が刺されたらリアルに私が痛みを体験するのであれば、それはもう私の体と同じだと言えるからです。」
ウィトゲンシュタイン「本当にそうでしょうか?もう片方の自分が刺されてリアルな痛みを体験しているのはこの『私』だけという可能性は考えられませんか?もう片方の自分は刺されて痛がっているふりをしているだけで、本当は痛みを感じていないかもしれません。もしそうだとしたら、もう片方の自分は『私』なのでしょうか?」
神経学者「うーん、その場合、そのもう一人の自分が実際にリアルに痛みを感じておらず、痛がっているフリをしているだけで、もう一人の自分が感じるであろう痛みをなぜか『私』はリアルに感じる事が出来る、という事ですよね。」
ウィトゲンシュタイン「そうです、もう一人の自分はフリをしているだけです。実際に痛みを感じているのは『私』だけです。」
神経学者「その場合は、もう一人の自分を私だと思いたくはありませんね。もはや、姿形が似た他人です。そもそも何で、私がもう一人の自分の痛みまで体験しなければいけないのか!と運命を呪うでしょう。」
ウィトゲンシュタイン「所で、その姿形が似て、リアルな体験をしている様にふるまっているもう一人の自分とは、そのままこの『身体』とも言えるのではないですか。つまり、なぜか私は、姿形が似たもう一人の自分の痛みまで体験しなければいけない運命だとも言えるのです。しかし、それでも、リアルな体験をしているのは、『私』だけなので、フリをしているこの『身体』は『他人』と言えます。」
神経学者「…この身体が他人であるなど、認めたくないですが…しかし、そう考えれなくも無いように思えてきました。しかし、では次の場合はどうですか?もし『私』の視覚はAさんから見た視覚を感じ、嗅覚はBさんから嗅いだ臭いを感じ、味覚はCさんが感じる味を感じ、体の感覚はDさんの感覚を感じ、聴覚はEさんの聞いている音を感じ、考えはFさんの考えている事が感じるとした場合、いったいどれが私になるのでしょうか?」
ウィトゲンシュタイン「君はAFさんのどれが『私』であるかと聞いているのですか?」
神経学者「そうです。さぁ言ってください。」
ウィトゲンシュタイン「『私』はAFの誰でもないよ。私は『私』だ。」
神経学者「どういうことです?現に感覚はAFの感覚を共有しているのですよ?」
ウィトゲンシュタイン「だから感覚を『共有』しているとは語りえない。なぜなら、他者がリアルな感覚を感じているかどうかは決して分からないからだ。今こうしてAさんから見えるであろう景色を私がリアルに体験していても、『私』がその体験をしているのであって、Aさんも同じようにその景色をリアルに感じているかは分からない。そのようにふるまっているだけかもしれない。それはAさんだけでなく、BFさんにも言えることだ。Aさんから見えるであろう景色をリアルに感じ、Bさんが嗅いでいるであろう臭いをリアルに感じ、Cさんが味わっているであろう味をリアルに感じようと体験しているのはただ一人のこの『私』である事になんら変わりはない。感覚がそれぞれバラバラでもそれらのリアルな感覚を体験しているのはこの『私』ただ一人だけだ。」
神経学者「なるほど、もし、リアルな体験を感じていなければ『私』ではない?」
ウィトゲンシュタイン「そこにはもはや『私』は存在しない。見たり、聞いたり、嗅いだり、感じたり、味わったり、考えたり、あらゆるリアルな感覚を全て無くした所を想像してみて欲しい。そこに『私』は存在するだろうか?」
神経学者「そう結論を急ぐのは待って下さい。仮に、5感(視覚、嗅覚、触覚、聴覚、味覚)のリアルな体験が無くなっても、言語感覚、つまり考えや記憶さえあれば『私』は無くならないのではないでしょうか?」
ウィトゲンシュタイン「記憶や、言語は感覚があってこその物だと言う事だと思わないのか?もし、5感が無くなれば、それらの言語や記憶は何を意味しているのですか?それらはただの無意味な記号だとは思いませんか?言語や記憶は5感と密接な関係性を持つからこそ、意味があるといえます。まず、真の世界を我々は5感で分別し分別世界を作ります。人間には人間の分別世界が、犬には犬の分別世界が、アリにはアリの分別世界が存在します。それらの5感で分別した世界をさらに言語で分別、区別し、価値や意味を作りだしているのです。なので人間にとっての価値や意味、善悪や美しさが存在し、犬にとっての価値や意味、善悪や美しさが存在し、アリにとっての価値や意味、善悪や美しさがそれぞれ存在し、それらは別々の物です。図で示すとこうなります。」
 
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神経学者「なるほど。この図で見ると、5感による分別世界が無ければ、その分別世界をさらに分別し、意味や価値を与える言語は何の意味も無いという事ですね。」
ウィトゲンシュタイン「そうです。」
神経学者「所でこの『真の世界』とは何ですか?」
ウィトゲンシュタイン「真の世界とはその名の通り、我々が分別する前の世界の事さ。つまり無分別世界と言う事。しかし、我々は、世界を5感で分別する事でしか、世界を知る事は出来ないから、真の世界は決して知る事は出来ない。まさに神のみぞ知るだ。」
神経学者「なるほど。つまり図を見て言うと、『私』という物は5感によるリアルな感覚に対して、言語が分別や解釈をした結果、生み出された物が『私』という事ですね。つまりリアルな感覚や言語の上に成り立つ物が『私』だと言う事ですね。」
ウィトゲンシュタイン「その通り!そして他人がいくらリアルな体験をしている様にふるまっていても、他人にリアルな体験が存在していると言う事は不可能だ。そしてそれは他人が私に対してもいえる事。リアルな体験を感じているのはLウィトゲンシュタインとラベル付けされたこの身体ではなく、ただ一人この『私』だけだ。『私』はただ一人、『私』しにしか知る事が出来ない。他人がLウィトゲンシュタインと言うとき、『私』を指しているのでは無く、それを指しているのはこの身体でしかない。なぜなら、他者はこのリアルな体験を感じる事は不可能であるからだ。リアルな体験こそが『私』なのだから、他者が『私』を知る事は不可能なのだ。」
神経学者「つまり『私』の存在は『私』にしか証明する事は出来ない?」
ウィトゲンシュタイン「そうだ。それはつまり私と言う存在は非常にあやうい存在と言う事だ。なぜなら『私』という存在は『私』しか知らないのだから。」
神経学者「私の存在があやうい存在とはどういう事です?」
ウィトゲンシュタイン「仮に、今、この瞬間に私にリアルな体験が一切なくなったとする。つまり『私』が消滅したとする。しかし、それでも、問題なくLウィトゲンシュタインという身体が今まで通り行動する事は、神経学者の君なら問題なく説明できるだろうね?」
神経学者「ええ、物体である身体の行動を説明するのにリアルな体験という『心』の必要性はありませんからね。人間の振る舞いや行動は全て、ニューロンの神経伝達で説明可能ですから。神経科学に心は不要です。むしろそんな物で出てくるとややこしくなる。」
ウィトゲンシュタイン「そうだ、つまり神経学者の説が正しいのであれば、私にリアルな体験が無くなっても、つまり『私』が消滅しても、Lウィトゲンシュタインの身体は問題なく行動する為、『私』が消滅している事に誰も気づきようがない。また『私』を知っているのは『私』だけなのだから、『私』が消えた事は『私』は知りようがないよね?」
神経学者「ええ、もちろんです」
ウィトゲンシュタイン「つまり、仮に『人間は1日交替で私が消えて、生まれている』という仕組みになっていても誰もその事を知りようがない。本当は1年が730日だとしても、その事に誰も気づかない、気づきようが無いという事になる。私が消えた事は誰にも知りようがないからだ。今こうしてお互い話している間も、私が消滅、生成を繰り返していても、私はその事に気がつけない。つまり『私』の存在は常に背後に『無』があり、『存在』とは『無』と表裏一体の関係があると言える。」
神経学者「なるほど、しかし、『私』が消えているともいえませんよね?」 
ウィトゲンシュタイン「それはもちろんだ。しかし、そのような可能性もあるし、そうかもしれないという事は言える。」
神経学者「なぜそんな事、口にするんですか?語りえない事には沈黙せよ()」
ウィトゲンシュタイン「あはは、これは一杯くわされたかな。でもそれは哲学者という者は『そうではない可能性を提示する者』であると言えるからだ。まぁ端的に『私』という存在に驚いていろいろ考えた結果にすぎんよ。」 
神経学者「そーですか。今日はありがとうございました。」 
ウィトゲンシュタイン「いや、こちらこそありがとう。」