―存在とは何か

真理への飽くなき追究

死をなぜ恐れる必要があるのか

―死をなぜ恐れる必要があるのか
・死や生とは何か?それは、物ではない。これが、生です、これが死ですと示す事は出来ない。せいぜい、動いているか、動いていないか、を示す事が出来るだけ。
・そう、生と死、これはモノが動いているか動いていないか、本当にこれしかいえない。
まして、在るか、無いか?存在と無は絶対に言えない。存在と無に対しては言葉では言えない。言葉は現象に意味を与えるが、存在と無に対しては、意味が無い(無意味)のではなく、意味では無い、非意味だから。
・なぜ、存在と無に対して言葉(意味)は手も足もでないか?つまり意味を与える事が出来ず、無意味ではなく非意味なのか?
・それは、この宇宙に確実に存在すると言えるのが言葉であるからだ。
・言葉がなければ、何物も在るとは言えない。逆に言えば、世界は言葉でしかない。
・社会、国家、自分、あなた、金、あらゆる言葉がある。ではその言葉とは何か?言葉の説明は言葉でしか行えない事が分かる。つまり、言葉とは何かと問うているのに、その分からない言葉でしか答える事ができない。分からない事を分からない事で答えても分かった事にはならない。言葉は何か?言葉はなぜ在るか?それについて言葉で答えることは出来ない、つまり、言葉が存在するのは、言葉(意味)では説明できない何か。つまり意味ではない何か、非意味なのだ。
存在を問う、すなわち言葉の存在を答える時、言葉では説明できないので絶句する。
・言葉がなぜ在るか?、言葉とは何か?それが分かっていないのに、皆、さも分かったかのように当たり前に使っている。しかし、当たり前の様に使っているその言葉、何か分からない、つまり言葉が語っている事はなにもわからないという事。言葉が語る事は、何も分かっていない事をさも分かったかのように作りあげている、作り事、フィクション、思い込みにすぎない。
・言葉で作りあげられたあらゆる物事は、しょせん作り事、フィクション、人間の思い込み。つまり、作り事の中で作り事が作り事を営んでいる。完全なるフィクション、物語だ。だからしょせんこの世の事、しょせん物語である。
・作り事では無く、確実に在ると言えるのは、言葉が在るという事だけなのだ。しかし、言葉が在るのは意味ではなく、非意味。つまり、なぜ?(意味)ではない。ただ、在る。在るがままに在る。在るものは在る。存在は言葉(意味)を超越して存在する。まさに神秘、驚愕である。
・では超越する存在の対である無はどうか。存在が言葉(意味)を超越しているとう事は、存在の対である無も当然言葉(意味)を超越している事になる。無は「なに?(意味)」では答えられない、無も非意味。無の意味(言葉)を言えたなら、それは在る事になる。無は無だから無なのに、無が在ったら無ではない。無は無限。つまり、無が限りないから無限なのだ。
つまり、無の対である存在も、存在が無いとは言えない。在るは在るから在るのだ。在るは在限。在るが限りなく在るから在限なのだ。在るから在る。在る無いを言葉で説明は出来ない。在ると無いは言葉(意味)を超越する「神」だ。
宇宙から眺めると、何も分からない言葉でいろんな作り事を作って、そのなかで自分という作り事を演じ、作り事の会社、国家でロールプレイしているのは、ちょっとした宇宙的ジョークだろう。存在と無の神はそれを見て楽しんでいるのだろうか。
・私とは何かを考えていくと言葉に行きつき、言葉とは何かを考えると非意味だと分かって絶句する。非意味である言葉はただ在るように在る。つまり、私を考えていくと、私は言葉であり、言葉とは何か考えていくとわからなくなる。でも在る。なんかどうでもよくなる。在るように在る。在るものは在る。無いものは無い。そうとしか言いようがないのだから。
 
参考文献 人生は愉快だ 池田晶子