―存在とは何か

真理への飽くなき追究

言葉は本質的に無いという事しか言えない

―言葉は無いという事しか言えない。
・あらゆる言葉は、人間が意味を見出し、作りあげた虚構、フィクション、作り事。
・つまり、言葉で語られるあらゆる事は「無い」事。フィクション、作り事。語る事を「騙る」とも言える。
それが分かったら絶句してしまう。沈黙はある意味で語れないという事を語っていると言える。ある者が釈迦に「存在する」とはどういうことでしょうか?と聞くと、釈迦が黙った。これは、語らなかったのではなく、語れなかったのだ。なぜなら、存在、すなわちこの宇宙に絶対的に在ると言える「考え」それがなぜ在るのか?という事は考えでしか考える事が出来ない。つまり、考えの存在を考えでしか考える事が出来ないという事は絶対に分からないという事だろう。考えが在る理由はなぜか分からない、でも在る!存在する!それに驚愕する。つまり存在する事は無意味ではなく、非意味なのだ。人間の考え、思考を超越するソレ、即ち「存在」は「意味が無い」のではなく、「意味では無い」のだ。考えを超越しているから。人間の考えを超越するソレ、即ち「存在」は「神」とも言える。超越するソレはどこかにあるのではなく、まさしく今、ココに在るのだ。つまり存在に対しては、意味であるロゴスで語る(騙る)事は出来ない、意味が無いのではなく、意味ではないから。だから釈迦は沈黙(絶句)したのだ。
・人間が本来、言葉で語る事ができるのはそれが無いと言う事だけなのだ。
・しかしほとんどの人は言葉で語られる事を在る事を思いこむ。
・人間は勝手に意味を見出し、言葉で区別し、フィクションを作り、思い込みをする。
・国家も社会も金も世間も会社も家族も自分も恋人も友人も全部、フィクション、作り事、物語、考え。だから、別に作り事なのだから、作り事の為に戦争なんかして死ぬこともアホらしいし、作り事である国の決め事(政治)に真剣になるのもバカバカしい、作り事に対し、真剣になっている人は、それが作り事、フィクションである事に気づいていないのだ。
・特に最近は、拝金主義者、自己主義者が多い。金も自己も思い込み、作り事、フィクションである事に気づかないから苦労する。金はただの紙切れだ。それに意味を見出し、価値だと思い込んでいる事に気づかない。金は交換する手段にすぎないが、金が目的になったら本末転倒。
・自己主義者の自己掲示欲の掃き溜めがネットだろう。自分を知ってほしい、認めて欲しい。自己という物が、言葉で語られる無い物、フィクション、作り事という事に気づかない。在ると思っている現象は全て無い、即ち空である、と釈迦は言った。即ち色即是空
同時に無い(空)はある(現象)に見える。つまり、空即是色。
・世界は言葉が見る夢である。ウィトゲンシュタインは世界を見事に表現している。
 
 
―肉体、魂、精神としての生成。
・物質として在る肉体に物質として無い精神がを魂が内包する、その時、生成となる。
・物質×精神=生成
又は、無い×在る=生成(生)
そして生成されたソレが死ぬ時再び、肉体と精神が分離する
消滅(死)=物質+精神
又は
死=無い+在る
 
精神なる物と物質なる物、これらの性質を決めているのが魂である。
なぜこの魂なのか?それは分からないが、釈迦は「ご縁」「縁起」と言った。一期一会。
魂の性質が運命となる。つまりこの魂の性質により人生は成るように成る。成らないようにならない。政治家でも、科学者でもなれる彼はなぜ彼をしているのか?それは魂の性質としか言いようがない。魂の性質=運命なのだ。魂の性質により、生きている人生を、私ではない空のそれが見物している感じ。まさに人生とはそんな感じだ。
・私、自己、自分という言葉の思い込み、作り事を信じこんで、欲を持つ。それが不幸の始まり。目標とは欲の事だろう。目標という欲を持った時点でその人は不幸だ。欲とは手に入らなくては苦痛だし、手に入っても限りが無いので渇望するものだからだ。
 
参考文献 人生のほんとう 池田晶子