―存在とは何か

真理への飽くなき追究

便利に価値はない

―便利に価値はない。
・人類(ホモ・サピエンス)は20万年もの間、水道・ガス・電気・電話・インターネットの無い生活を生きてきた。人類は便利な生活を手に入れた、人類の進化だ。と言うが、水道・ガス・電気・電話・インターネットが無いと生きていけない現代人は本当に進化しているのだろうか?それは退化ではないか?
・便利だ、楽になった。人々はそれに喜ぶが、人間、楽をするとダメになる。便利は堕落の始まりだ。不便と感じる時点で、その人は不幸だ。便利=良い事と思っている、これが不幸の始まりだ。
・中国の賢人、荘子は古来からその事を見抜いている。ある者が荘子に尋ねた。賢人よ、なぜ井戸から水を汲むのに滑車を使わないのか?荘子曰く、「楽をすると人間は堕落するのだ」と言ったそうだ。
・便利な技術は生きる為の手段である。しかし、現代人は便利な技術を手に入れる事が、生きる目的となっている。生きる事の本末転倒とはこのことである。
・賢人ソクラテスは言った。「私は食う為に生きているのではなく、生きる為に食っているのだ。」現代人は、食う為に生きている人ばかりだ。すなわち欲望を満たす為に生きている。
快楽は生きる為、繁殖の為の手段であり、目的ではない。
・生きる事の意味を考えないから、このような事になるのだ。
・よく生きる為には善く生きるしかないという当たり前の事に気が付かない。快楽の為に、善悪の基準ではなく、損得の基準で判断し生きる事がどうして善い人生となるのか?不正、虚偽、偽り、嫉妬、裏切り、殺人、盗み、自分さえよければそれでいい、と平然とやってのける、そんな生き方が善い人生だと思っているだろうか?おそらく何も考えていない。動物的に快楽、苦痛に条件反射で生きている、生きる意味を考えるという人間的な生き方をしていないのだ。
・自然の神秘、宇宙の神秘、自分がいるという事の神秘、精神の神秘、驚愕、それらを忘れ、感じる事が無くなったのが原因だ。神秘に驚愕すると、考えざるを得ない。
ゲーテは言った。「私は驚愕する為に生きている」これはすなわち、存在の神秘に驚き、考える為に生きているという事だ。
・現代人が存在の神秘、脅威を忘れ、感じなくなった事の原因として科学信仰が一つの原因であると考える。科学とは真理を説明する一つの説明、考え方にすぎない。それを信じ込む等、信仰にほかならない。科学宗教を信仰している事に気づいていない。信仰とは分からない事を考えず、信じ込むという事だ。
・科学は真理を追究する手段である。それが今や、ビジネス=金儲けのくだらない手段に成り果てている。真理は金で買えるような物では無い。科学技術は、真理を解き明かす手段であるが、今や、科学技術を発達させる事が目的になっている。本来の目的を見失った科学に未来はない。ホントウの真理だけを追究して考える学者(愛知者)が今やほとんどいない。
大学の民営化は本当に馬鹿な事だ。真理の追究が大学、すなわち2500年前にプラトンが設立したアカデミアの目的ではなかったか?民営化、すなわち科学を金儲けの手段に使いますという事を宣言してしまった。もう落ちる所まで落ちたなという感じだ。
・現代人が夢見る近未来社会とは、生き地獄に思える。
生活に必要な事はすべてAIなる人口知能をそなえたロボットにまかせ、人間は働きもせず、ただ己の快楽を何の苦労もなく手にする事ができる。自動でごちそうが口に運ばれ、タダであらゆる娯楽を楽しめ、何も動かなくても目的地に行け、やりたい事はなんでも仮想世界で、老化した臓器は、いくらでも新しいのに交換可能なので、死ぬ事もない。はたしてそんな人生が本当に素晴らしいと思っているのだろうか?死ぬ事が無ければ生きる事も分からないだろう。不快を知らなければ快も知らないだろう。苦が無ければ楽もないだろう。おそらく人間はこのような、地の底の底まで落ちないと「生きるとは何か?」という問いを持たないのではないか。そうであるなら、一度、地の底の底まで落ちるのも悪い事なのではないのかもしれない。人間は馬鹿だから、失敗したと「分かる」まで失敗を繰り返さないと分からない。「分かる」には考えないと分からない。考えなければ、永遠に分からない。
・便利になって、時間が余る。その余った時間をさらに便利な技術を生み出す事に時間を費やす。時間を生む為に便利な物を使っているのに、これでは本末転倒。生きる為でなく、便利にする為に生きる。便利な事が逆に時間を奪っているではないか。便利に価値は無いのはこの為である。便利に生きる事に価値が有るのではなく、善く生きる事に価値があるのだ。あたりまえの事がわからない、気づかない、善く生きる為に生きているのではなく、便利な生活にする為に生きているから仕方がない。
 
―日本語の素晴らしさ。
・この世の事を「浮世」と言う表現がある。
・これは頭3尺分(頭上1メートル分)上から眺めた世界という意味。
・すなわち、自分や他人はそのには無い、客観的に俯瞰した世界があるのだ。
・だから、日本語には英語と違って、主語が無くても、会話が出来る。
・古来より、日本人は自分、相手などは思い込みに過ぎない、「観念」だと言う事に気がついていたのだろう。万物すべてを考える、内包する、それが私=世界なのだと。
・主観、私、自分や相手などが在るという思い込み、や観念、それがすべての不幸の始まり。
 
参考文献 目で見る物と心で見る物 池田 晶子  杉浦 日向子