―存在とは何か

真理への飽くなき追究

確実に「在る」と言えるのは「考え」だけ。

―在るのは考えだけ
・この宇宙に確実に在るのは何だろう?物質?宇宙?国家?私?相手?それは在るという「思い込み」、「観念」にすぎない。すなわち、私たちの考え、認識無しには、宇宙は、物質は、私は、存在しない。宇宙があるから考えがあるのではない。考えがあるから、宇宙が在る。
では考えとは何か?仮に答えがあったとしてもそれは考えにすぎない。考えは何かと言う事を考えでしか、考える事が出来ない。すなわち、考えだけが絶対に在る。
・私も物質も、宇宙も無い。確実に在るのは考えである。そして考えは言葉(ロゴス)である。つまり、確実に在るのはロゴス(言葉)だけ。宇宙が、人間が在るから言葉が在るのではない。言葉が在るから、人間が、宇宙が在る、ように思いこむ、観念が生じるにすぎない。私も、相手も、宇宙もない。在るのは言葉だけ。私や宇宙の中に考えがあるのでは無く、考えの中に私や宇宙が在る。
・私、自我、相手、敵、味方、そのような思い込み、観念が不幸の始まり。そんな物無いのだ。私、自我、相手という思い込み、観念からの脱出、肉体と精神の分裂を行なわないと、真理に気づく事は出来ない。真理はそこに在る。気づいていない。いや気づこうとしていないだけ。「私」、「あなた」、「俺」「お前」「○〇君、〇〇さん」等の1人称、2人称、3人称を使う事が、まず勘違いの始まりだ。
・私や、自分、自我の思い込みにはまった人ほど、自分を誇示しようとする。正直、それは中見が何もない事の裏返しの行動だから、自分を誇示する人は私には中見が何もありませんよ!と自ら言いふらしているように見える。
・「汝の敵を愛せよ」キリストの隣人愛は無理がある。なぜなら「敵」と思いこんでいる時点で間違えている。そして敵がいるという事は「私」がいるという思いこみも生じている訳だ。敵や私が在ると思いこんでいる時点で不幸なのだ。敵が在ると思い込んでいる時点で愛する事など無理なのだ。おそらく、キリストの伝えたかった本心は、愛は善だから行え。それだけだ。
 
―夢の中にいるのは別の精神思考
・夢の中の精神思考は、夢の外の精神思考形態と確実に異なっている。
・まず、夢の中の思考形態で分かった事が、夢の外では分からない。
・夢の中で理解できた論理が、夢の外では理解できない。
・おそらく、夢の中の精神は、夢の外の精神と別物なのだ。
・夢の外でも、俗に2重人格と言われる人は、別々の精神思考を夢の外でも持っている。
・少なくとも我々は夢の中に、別の精神思考を持っている。夢の中には違う誰かがいる。
・我々は人生の約1/3に眠りに使っている。人生の1/3は別の人格という訳だ。さて、はたして、夢の外が本当なのか、それとも夢の外が実は夢なのか。
 
 

参考文献 知る事より考える事  池田 晶子

        君自身に還れ 池田 晶子