―存在とは何か

真理への飽くなき追究

時間に価値は無い

―時間に価値はない。
・なぜ時間に価値はないか。それは、何も苦労せずとも手に入るものであり、善悪で考えると、別に善い事ではないからだ。時間を過ごす、即ち、年を取る事も価値は無い。別に年を取るのは誰でも出来る事であり、特別善い事でもないからだ。だから、年長者が、年少者よりも偉い、年寄りが偉いという事も決してない。その人が立派なのはまさしく、立派に生きてきたから、善く正しく生きてきたから、立派なのであり、ただ年を取ったという事は決して立派な事ではないのだ。ただ生きるという事は、畜生でも出来る事であり、善い事ではない。善く生きいる事だけが、善く生きるという事なのだ。下劣な魂が有るように、美しい魂もある。すべては、どのように生き、どのように魂を磨いて生きてきたかで決まる。だから、平等な魂などありはしない。魂に優劣がある、つまり、人間の価値が等しくない、つまり魂の優劣により人間が等しくないのは当たり前。
・時間に価値はないというが、時は金なりというじゃないか!という人がいるが、所詮、時間は金程度の価値しか無いという事を言っているに過ぎない。
・なぜ金に価値はないか。まず、金で善は買えない。魂は磨けない。むしろ金に執着する程、善から人間は遠ざかり、損得で考えだす。損得と善悪はちょうど両極端に存在し、善と損が、悪と得が表裏一体として存在するのだ。自らの得を求めると、悪に身を滅ぼし、魂を汚す。形ある物は必ず滅びる。しかし、物では無い魂はこの理にあらず。滅びる物と、滅びない魂、どちらに価値を求めるか。死を恐れるより、下劣である事を恐れよ。いずれ死する肉体などより、優先すべきは魂である。
 
―自然とは何か
・自然とは「自ら然る」事。
・多くの者は私の体、私の命と自らの所有を主張するが、それは本当に、自分の物なのか。
・その体も、その命も、自ら、望んで求めた物なのか?自ら求めて作った物なのか?否、断じて否。それは、気づいた時にはそこに在った物。自ら然った物。それをどうして自分の物と主張するのか?自分の体で無い物が、思うように動かない、思うようにならないのは当たり前なのだ。老いを憂い、アンチエイジングなどとぬかし、老いに抗うことのバカバカしさよ。
・では、この体、この命は誰が作ったか?親か?いや確かに親は、その行為は親の意思だが、精子卵子が結合し、人間の肉体、精神が生まれるのは、親の意思ではない、超自然的な宇宙の意思により生まれた物だ。神秘である。そして親も、同様に、その自然により、自ら然った物だ。「自分の」子供も、「自分の」親も思い込みに過ぎない。すべての物、すべての命は、等しく宇宙から生まれた兄弟である。いうなれば、全てが、宇宙の所有物であり、何一つとして、私たちの所有物など、存在しない。
ゆえに、この世の物に執着するなど、バカバカしい。「すべては塵から生まれ塵に返る」―旧約聖書で述べられる様、全ては宇宙という神秘、すなわち「神」から借りている物であり、いずれ神に返す物なのだ。私の物、その思い込み、観念こそが、全ての不幸の始まりである。
 
―言葉の不思議。
・この世に唯一在る物は何か?と考えてみる。宇宙か?この体か?しかし、この物質世界はすべて、精神により認識した世界だ。すなわち、認識する精神が仮に無く、物質世界があっても、その物質世界を認識出来なければ、存在しえない。いや、精神が無くたって、物質が在るんだったら、物質は在るじゃないか、という考えも、そのような考えるという精神がなせる業なのだ。つまり、絶対的に在るのは認識する精神。認識するとは、意味を見出すという事である。あらゆる物に普遍的意味を与えている物、それが言葉だ。認識し普遍的意味を音に加え、作り出した魔法の呪文、すなわち、存在を生み出す呪文、それが言葉だ。
全ての存在は、言葉なしにはあり得ない。言葉なしには、我々は宇宙は存在しえない。我々人間も、宇宙も、言葉により、存在している。この世界に存在するのは言葉だけだ。世界があって、言葉が生まれたのではない。言葉が在る事により、世界が生まれた。「光在れ」そう言って世界が作られた―旧約聖書の創世記でも、まず、世界よりも言葉が先に在る。言葉は人間をはるかに超えている。「自分の言葉」などとバカな事をぬかす奴がいるが、どこに自分の言葉などあるものか、言葉なしには、自分など存在しえないというのに。すなわち、私とは言葉なのだ。普遍的意味を持つ言葉は、だれが、言っても同じ事になる。普遍的意味、すなわち、真理は誰が述べようが、関係ない。普遍的意味を内包する言葉を持つ時、言葉を述べる時、私という自我から解放される。なぜなら私は言葉であり、言葉が普遍的意味を持つのらば、普遍的故に、私など、関係なくなるのだ。
・真実の言葉、すなわち真理は、断じて個人の意見ではない。普遍的であるが故に、真理と呼ばれるのだ。沈黙は重要な事だ。普遍的な意味を持たない言葉は、自我から解放されず、自我にはまり込む。それは決して普遍的意味を持つ、真理の言葉を見つけ得ることは出来ないだろう。
 
―分かるとは何か?
・分かる、分からないの違いは、体験する、体験しないの違いと言える。
・耳が聞こえない人に、聞くとはどういう事か説明しても、例えば、神経学的な説明を行っても、聞くという体験をしなければ、決して分かる事はないだろう。
・分かるという時、それは一種の体験を伴う。想起という体験だ。すなわち、我々は、元々知っていたのだ、そうでなければ、どうして、分かった!と確信する事が出来るだろうか?
・つまり、真理とは己の内に在り、考えなければ、決して分かる事はない。情報を知る事を知るとは言わない。あえて言うならそれは情報の取捨選択という。考えて、想起という体験を行い、分かる、これが知るという事だ。
・他人に何かを教えるという事は出来ない。せいぜい自ら気づかせる、考えさせる手助けが出来るだけ、分かるか分からないかはあなた次第という事だ。
・だから分かる人には分かるし、分からない人には分からない。
 
―この世界の物質世界はいろいろ分かりかけているが精神世界はどうだ?
・物質世界はいろいろと分かってきた。素粒子論からひも理論まで。ブレイクスルーはアインシュタインEmc^2.すなわち、物質とエネルギーは等価であるという事だろうか。
しかし分からない事も沢山ある。確かに物質は精神と同じくらい神秘でそれに惹かれるのも分かる。
・さて+と-は引き合う、+と+、-と-は反発し合うがそれはなぜか?
万有引力、全て物質は引き合うがそれはなぜか?いろんな説明が出来るようになってきた、しかし、依然として、なぜ物質は在るのか、なぜエネルギーは在るのか、なぜ宇宙は在るのか?いまだ不明である。
・しかし、この世界つくりだす、その物、精神の事は本当に分かっていない。
・精神とは何なのか?確実に在る事は分かる。でも、重さもないし、見えないし、触れる事も出来ない。故に物質の法則はてんで適用出来ない。この世で最も早い物は光だが、光より早いソレはすなわち知性である。この世で最も軽いソレは精神とも言える。この世で最も大きいソレはすなわち精神である。この世で無限と言えるソレ、精神である。宇宙は無限だろうか、有限だろうか、しかし、それを考える精神は宇宙を越えている。考える事を考える、それを事を考える、さらにその事を考える・・・・思考、すなわち精神は無限だ。
・宇宙には、暗黒エネルギーなる物が宇宙の約半分を占めているようだ。しかし、それは見えない上に、物質でもないらしい。私はおそらく精神エネルギーなる物だと思える。
・宇宙は、物質エネルギー半分、精神エネルギー半分で出来ていると考える方がよほど合理的ではないか。宇宙はすべて、観測する事が出来る物質やエネルギーで出来ているんだ!と信仰する物質至上主義の科学者達。本人たちは、そう考えているのが、本人たちが否定している、物質ならぬ精神による物だという事に気づいてはいない。いや、気づこうとしない。考えないから。
 
―賢さとは一種の優しさである。
・優しさとは愛を与える事。
・では愛とは無いか?愛とは善い事。
・善い事とは何か?正しい事。義。言動が美しい事。考える事。知る事。魂にとって善い事。
・正直、善とは何かと問われても、それは、自らの魂が善いと思える事としか言えない。損得ではなく、善悪で考えて自分が正しい、善いと思った事が善い事だとしか言えない。自分にとっても善く、相手にとっても善い事、それが絶対的な善と言えるだろう。自分にだけ善いことは独善になる。
・なぜ善いと思えるのか?もうそれは、そう自らのダイモン(鬼神)がそう告げるからだとしか言えない。なぜ悪い事はしてはいけないか?と問われても同様である。己の魂に聞けとしか言いようがない。おのれの魂に聞き、それに従えと。
・人をころしてはなぜいけないか?という問いがそもそも不毛だ。そんな事、他人に聞くのではなく、己の魂に聞け。己の魂がそれを善い事だと言うのなら、その殺人は善い事なのだ。己の魂がそれを悪いことだと言うなら、その殺人は悪なのだ。己の魂にとって善い事が善い事なのであり、己の魂に取って悪い事が悪いことなのだ。善悪とは、そんな当たり前の事なのだ。
 
参考文献 暮らしの哲学 池田 晶子