―存在とは何か

真理への飽くなき追究

在る/無い、いる/いない、は等価ではない。

―在る/無い、いる/いない、は等価ではない。
・在る、いるというのは易しいが、無い、いないというのは、比べものにならないくらい難しい、いや、困難、不可能とも言える。
・例えば、宇宙人はいるか?いないか?という事を証明する時、いると証明するのはたやすい。現に我々人間は、地球人である前に宇宙人でもあるので、少なくとも1種類の宇宙人はいると言える。しかし、宇宙人がいないと言う為には、全ての宇宙をくまなく探し、いませんでしたというより他にない。実質、そんな事不可能だ。だから、宇宙人がいない事を証明するのは不可能である。
・では、肉体が死んだら、精神は在るか?無いか?はどうだろう。この場合、在るより、無いと言う方が難しい。在るというには、一人でも、あれば、在ると言ってもいいが、無いと言う場合には、一人残らず調べて無かったというより他にないからである。
この様に、死んだら、形ある肉体が無いというのはたやすいが、形無い精神が無いと言うのは非常に難しい。それは、死んだ後に、精神が在るというより、無いという方が難しいと言う事だ。同様に、宇宙が在るというより、無いという方が難しい。そもそも無いとはどういう事だろうか?無いとはほんとに何もない。精神だろうが、物質だろうが、時空だろうが、エネルギーさえ、無い。絶対無、それこそが無いという事だ。およそ、この何でもアリの宇宙の中では、絶対無など存在しないだろう。存在するとすれば、宇宙の外かどこか。
・しかし、絶対に在ると言えるのは、「今」、「精神としての私」が「在る」という事だけ。認識する宇宙や物質ではなく、認識その物が在ると言える。認識する精神としての「私」しかいない。まさに、「我思う、故に我あり」である。なぜなら、この物質も、宇宙も、所詮、認識する精神の思い込みだからだ。そして、言葉により、世界を創造する。全ては、言葉による思い込み。人間は思い込みの生物。在ると思えば在るし、無いと思えば無い。眠っている時の夢だけでなく、現実と思い込んでいる物質や宇宙もすべては、精神が認識する夢であるという可能性もある。我々が認識しないと、宇宙や物質が在るとは言えないという事は、我々の認識の上に、この宇宙は在ると言える。もし、認識する精神がなければ、宇宙や物質の存在は揺らぐ事になる。しかし、先程言ったように、精神は在ると言うより、無いと言う方が難しい。つまり、宇宙や、物質が無いと言うより、精神が無いという方が難しい事になる。つまり、宇宙が無い、ビックバンより前の物質も時空もエネルギーすら無くても、精神は在るという可能性がある。その精神はすなわち「神」と言える。
宇宙が在るから、精神は在るのか?
精神が在るから、宇宙はあるのか?
宇宙は無くても精神は在るのか?
精神が無くても宇宙は在るのか?
宇宙と、精神は独立して在るのか?
物質としての振る舞いと、精神としての振る舞いは別と考えるべきか?
宇宙は成るように成る。在ると思えば在る、無いと思えば無い。