―存在とは何か

真理への飽くなき追究

なぜ、無価値な快楽を求めるのか?

―肉体の死は倫理の主軸である。
・多くの拝金主義者、科学主義者、資本主義者、欲望主義者は、いわば、どうせ死ぬんだから、生きている間に楽しもう、又は、生きている事に意味など無いのだから、どうせなら楽しんで死にたいという考えが主軸にあると思われる。
・逆に、愛善主義者、魂主義者は、肉体はいずれ滅びるのだから、肉体の欲望に価値を求めるのは無価値だから、肉体が死んでも無くなるかどうか分からない、精神、魂を善により磨いていこうという考えが主軸にあると思われる。
・今後、人口知能、サイボーグ、再生医療、等等の科学技術により、死ぬことが無くなると倫理性は崩壊するか?
・拝金主義者、欲望主義者、資本主義者は、楽しむ事に飽き、次は死ぬ権利を金で買いだす様になるだろう。
・愛善主義者、魂主義者はどうか。延命治療をまず受けないだろう。なぜなら、形有る者いずれ滅びるという事を自覚しており、もとより、肉体より、精神、魂を尊重しているからである。彼らは、もとより、肉体の死よりも下劣である事を恐れているのだ。
・快楽至上主義者はなぜ快楽を求めているのか。あの人たちは、自らの欲望を満たす事において、無自覚なのだろう。なぜ、自分が欲望を満たそうとしているのかおそらく考えた事がない。いわば、欲望を使役するのでなく、欲望の奴隷になりはてているのだ。
・快楽というのは、物質的には、脳内でドーパミンなる化学物質が放出される事に起因しているらしい。その時、外界を認識する「意識」が、快楽の「感情」を刹那的に生み出す。
・物質至上主義者の彼らが、物質ではない、快楽を求めているのはお笑いではあるが、刹那的な快楽という感情に何の価値があるのか?あれらは、元々、より栄養価の高い食物を分別したり、子孫を残す為の「手段」に過ぎなかった物だが、いまや、手段ではなく「目的」になってしまっている。子孫を残す為でない、ただ快楽のみを求めるセックス、栄養を摂る為では無く、ひたすら食べ続ける肥満者等、本末転倒とはまさにこの事である。快楽など空虚な物に価値があるはずがない。そんなに快楽欲しけりゃ、ずっとクスリやってろ。快楽主義者と麻薬常習犯に大した差は無い。
・肉体は滅びるが、精神、魂はどうか。肉体の欲望に価値を求めるより、魂に価値を求める方が、よっぽど、希望があるのではないだろうか?魂は、ロゴス(言葉)となって、現実に具現化する。魂は言葉となり、言葉はお互いの魂と魂のやり取りである。言魂たるゆえんである。
・魂は己の悪行のみにより、汚され、己の善行のみによって磨かれる。
・すでに、イエスは人間の善い生き方を述べられている。
「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、」
「隣人を自らのごとく思い、自らのごとく愛しなさい」
・神とは何か。イエスが述べた神とは偶像の事ではない。ましてや、今のキリスト教の様に、イエス自身の事でもない。神とは宇宙、そのものの事である。
・人間は自らの存在を問う時、おのずと、宇宙の存在を問う事になる。この世の事は成るようになり、成らない様にはならない。すべては必然なのであり、偶然などない。人間が偶然だという時、それは、人間が理解できていないに過ぎないのだ。ゆえに宇宙が存在し、我々が存在するのも必然なのだ。さて、では宇宙はなぜ存在するのか?それはもう分からない。人類の壁、いや、バカの壁とでも言うべきか、巨大な壁がある。いわゆるここが「無知の知」というべき思考のスタート地点である。ちなみにビックバンだ、相転移だ、大統一理論だ、超ひも理論だなどと科学至上主義者は述べるが、じゃあなぜ、超ひもなの?なぜ、力はあるの?と問い続けると科学には限界がある事が目に見えている。
・なぜか分からないが、宇宙は在る、私は在る。この不思議さは「神」という言葉が妥当であろう。
・宇宙とは価値そのものである。そして我々は宇宙の一部であり、我々の肉体が死んだとて、依然、宇宙は存る。人間が宇宙に価値を求めた時、死の恐怖などなくなる。私は宇宙の一部であり、私の肉体が死んでも宇宙は依然と在る。それだけで、十分ではないか。
 

―私とは何か?

・「私」という奇怪な単語が存在する事自体が間違っている。

・多くの者は私=肉体と思っている。

・私とは世界そのものである。世界を認識する事を認識する者が在る。いうなれば世界を認識する事を「意識」と呼ぶならば、その意識を認識する者は、すなわち魂である。

・世界の認識の認識の仕方が個人により異なるのは、魂の性質が異なるからだ。

・世界をまず、意識、精神というレンズを通して知覚、認識される物、いわば「虚像の世界」が我々が知る世界の全てである。その点で、決して「真の世界」を知る事は出来ない。

・人間は、世界を文字通り、想像(創造)している。

その、虚像の世界をどのように捉えるかは人それぞれである。人によって、虚像の世界の認識が異なるのは、魂の性質が異なるからである。それは個性などと、陳腐な言葉では表せる物ではない。「魂の性質」というロゴス(言葉)がふさわしい。

・真理とは自身を鏡に映した物だ。下劣な自己愛や感情、欲望などは、鏡を曇らせ、真理を映しはしない。

・感情は、知性程、美しい物ではない。所詮、自己愛に過ぎない下劣な物。

・個人の主張や意見が述べられた物は、所詮、認めて欲しいという自己愛による物だ。自分の理論に自信がない事の裏返しにすぎない。個人の主張ほど、下劣な物は無い。

・真実よりも、自分を先に主張する者は偽者だから。遅かれ早かれ、歴史から姿を消す。

・古典が古典たる所以は、自分を主張する事なく、真実を主張するからだ。

・求める者は、自身が空虚である事を自ら示しているにすぎない。
 
参考文献 魂とは何か?さて死んだのは誰なのか? 池田 晶子