―存在とは何か

真理への飽くなき追究

死を恐れず、下劣である事を恐れよ

―死を恐れず、下劣である事を恐れよ
・死とは肉体の状態の変化にすぎない。生の意味を肉体の欲求に求める事はおろかだ。
すなわち、善悪の天秤ではなく、損得の天秤で量る人生など無価値に等しい。損得の天秤で量る者は自らの天秤で量られる、とイエスが言われる様に、損得で人を判断する者は同様に、自らも損得で判断される。「他人は自分の鏡である。」これは真理だ。
・損得で量る事の出来る下らない事は「見るな」「聞くな」「思うな」。
・損得で量り、ただ、自らの快楽の為に生きる生に何の価値があるか?形のある肉体に価値を求めて何の意味があるか。なぜなら、形有る物からなず滅びるからだ。これは万物の真理である。死する肉体に価値を求め、なぜ、形無き精神に価値を求めないのか?形無き精神は万物の理を凌駕する。肉体である体や脳の物質の中に精神が在るのではない。もし在るのであれば、ほら、では精神を取り出して見せてみよ!不可能である、精神は物ではないからだ。ゆえに、死する物ではない。ただ在る物だ。肉体が精神だと思っているのはそれは自分がそう思っているからそうなっているだけである。すべては、自分が思う、認識するように世界は創造(想像)されるからだ。
・ただ生きる事が尊いのではない。そんな事、螻蛄だろうがミジンコだろうが、凶悪殺人者であろうが、誰でも出来る事だ。ただ生きる事はなんら褒められる事ではない。
・善く正しく生きる事が尊いのだ。善く正しく在る為に生きるのだ。善く正しく在る為に、他の生物の命を奪ってまでも生きているのだ。断言する。肉体の快楽の為にただ生きる事に価値はない。もう一度、他の生物の命を奪い生きていくしかない罪を背負ってまで生きている理由を述べよ。神は全ての人間の罪をお許しになり、こうして生かして頂き、生きる為にあらゆる物を与えて下さっている。はっきりと言っておく。人の罪を裁く事が出来るのは神のみである。この世に、誰ひとりとして罪を犯していない人などはいない。それが、どうして他の人の罪を裁けようか?復讐をしようと企てる者、改めよ。報復は神の仕事であり、罪を犯していない神のみが人を裁く権利をもつのだ。
・損得で勘定し下劣に生きるか、善悪で判断し崇高に生きるか。肉体を優先するか精神を優先するか。どちらを優先すべきかは自明であろう。神の御国は死んだ後に在るのではない。神の御国は己の中にある。そこに在るのだ。しかし、それを知っているのに知ろうとしない、見えているのに見ようとしない、聞こえても聞こうとしない、理解しようとしない。だから、死後の世界だなんだという話になる。断言する。神の御国は自らの心にある。
あなた達が持っている物であなた達の物は何一つとしてない。肉体や財産、この世の物はすべては神の物であり、すべては、神から借りている物でありいずれ神に返すものである。ゆえにこの世の物や金に執着するのは無意味である。肉体や物ではない、無形の存在、すなわち精神にこそ、価値がある。ゆえに相手にとって悪いことは、自らにとっても悪であり、相手にとって善いことは、自らにとっても善い事なのだ。自らだけが良い事は善い事ではない。善い事とは、全ての人にとって善いから善い事なのだ。
殺人が悪なのは、それが、誰にとっても悪い事だからだ。だから人を殺してはいけない。多くの者の精神に、そして自らの精神をも傷をつける。人を騙すことは、自らも騙す事になる。ゆえに人を騙すことは悪なのだ。
 

―自分以外の他の物に原因があるのではない。すべては本人に原因がある。

・だれかの所為にする人は根本的に間違っている。なぜならすべては自分の中に問題がある。

・つまりどんな、いかなる言い訳であろうと、自分以外の所為にする人は間違っている。

・すべては、自分が「思う」、「認識」するように世界はあるだけだ。つまり、その人が、そのように「思う」、「認識」すれば、そのうように成る。すべてはその人の思うように成る。思わないようにはならない。

・この世界は言葉により作られた世界だ。言葉がなければこの世界は無かった。

・「光在れ」そういって世界が作られた。聖書に書かれている様に、すべてはまず「言葉」が先にあった。世界よりも先に言葉があった。言葉が世界を創造(想像)した。

・はっきりと言っておく。いわば、この世界は、正しくは、人間という種が言葉により創造(想像)した世界にすぎない。だから、人間が在るといえば、在るし、無いと言えば無い。世界は、外ではなく、内にある。我々が世界の作り手だからだ。ゆえに、真の世界は、絶対に人間は、人間である以上、認識する事は出来ない。人間が認識出来る事だけが在るという事は、人間が認識出来ない事は、在っても無いという事だからだ。

・故に、幸福が今あると思えば、幸福は今、在るのであり、幸福が今は無いと思えば、永遠に幸福は訪れない。

・生が在ると思えばあり、生が無いと言えば、無い。

・死があると言えば在るし、無いと言えば、無い。

・死とは無の事ではない。無が在るという事は矛盾している。無は無であり、無いが在るなど絶対に言えないからだ。生が無いという事も矛盾している。在るが無いとは言えないのだ。在る物は在る。無い物は無い。これが真理だ。

・故に生が在るとすれば、死は無い。死が在るとすれば、生はない。

・この絶対矛盾の中に、私は存在する。私が在るとすれば、無は無いという事になる。

・私が無いとすれば、無いはずである。しかし、私は在る。即ち、私とは常に在る。無くなりはしない。私が在るという事は真理である。ゆえに私は無くならない、永遠に在るのだ。死とは無い事ではない。生とは在る事ではない。単に肉体の状態の変化の事を示す。私は肉体の事ではない。それは思い込みだ。この世界は自分の思うように出来ている。自分の肉体が私だと思っているに過ぎない。私とは何ものでもない。それが私だと思えば、私になる。「我思う、そこに我あり」。世界中の人類が全て私だと思えばそれらは私になる。イエス・キリストが伝えた「人類皆兄弟」という教えはここにある。私は宇宙にだってなれる。この世界は自分の思うようになる、なぜなら、我々が認識するこの世界は、自らの認識により創造(想像)した世界にすぎないからだ。

―人間は本質的に自らの考えでしか理解できない

・会話や手紙といった方法では伝えているのは「考え」ではなく、「言葉」である。

・なぜなら、言葉を受け取っても、そこから、考えを見出すのは、受け取った本人によるからだ。ゆえに、自分の考えを相手に伝える事は不可能なのだ。伝えるのは言葉であり、それ以上でもそれ以下でもない。

・ゆえにキリストが言うように分かろうとしない人には分からない。逆に言えば分かろうとする人にしか分からないのだ。

・求めよ、さすれば与えられん。この真意とはここにある。真理は求めなければ、わかる事はない。分かろうとしなければ決して分からない。考えようとしない者が分かる様になる事は永遠にない。人間が認識出来ない事は、在っても無いからだ。

参考文献 

死と生きる 獄中哲学対話 睦田 真志 池田 晶子