―存在とは何か

真理への飽くなき追究

この世界は仮想現実(バーチャルリアリティ)である

―この世界は仮想現実(バーチャルリアリティ)である
・仮想と現実の区別がついていないというが、そもそも仮想と現実に区別などないのだ。
・なぜなら、我々の実感しているこの世界は我々の認識により想像された物だからだ。
・意識、心、死、同様、生、人間、国家、世界、宇宙なども認識にすぎない。言葉は、無い物をあたかも在るように見せるが、それは認識にすぎないのだ。
・ロボットや植物、臓器に心はあるか?という問いに対し、心とは何かをまず「考える」必要がある。すると心とは認識に他ならないという事が分かる。つまり、心があると思う事、それこそが心である。ロボットや植物、臓器が認識する事が出来るかどうかは分からないが、少なくとも、私たちはそれが出来るので、心があるといえる。
・しょせんこの世(仮想現実)の事だもの。人間の想像力は豊かだ。何があったっておかしくない。幽霊や、超能力などが存在してもなんら驚く事ではない。この世は成るようになる。成らない様には成らない。驚くべきは、この世が在る、認識出来る、私が在るという事であり、なぜ在るのか?それこそが摩訶不思議である。
 
―知るとは考えるという事であり、本質を知るという事である。
・情報を知ることが賢くなることだと思っているおバカさんが増えている。
・誰でも、情報が発信できるようになり、無内容の言葉の垂れ流し、その無内容な情報の収集を繰り返す事により、いよいよ、人間は考える事を止め、おバカになっていく。
・情報化社会は、おバカさん量産化社会とでもいうべきか。
・快楽をただ求める為に生きる、そこに何の価値があるのか。他人からの賞賛、評価だけに生きる、はたしてそれが、自分の人生と言えるのか?
・自分の肉体など、時の試練を生き残れない無価値なものだ。自らの肉体の為に生きるなど、無意味で無価値だ。ゆえに私が行動する、本質は自分の為でなく、人間の為にある。真の価値とは、肉体ではない私にある。私とは肉体の事ではない。私の価値はより善く正しく在る事にある。
・世の中の人間は、損得と善悪をはき違えている。損が悪で、得が善だと思っているのだろう。だから、自分が得する為に平気で、悪を行うし、自分が損するからといって、善は行わない。本質的に、損得と、善悪は反比例の関係にある。そして、損得は己の肉体の為だが、善悪は私の精神、魂に関わる事である。どちらを優先すべきであるかは言うまでもなく精神、魂である。死体は私ではない。私とは、認識であって、物、物質ではないのだ。
脳の事を私だと考えている人が多いらしいが脳の事を私だとどうして言えるのか?では、脳から私を取り出してみよ。脳を切断すれば意識が無くなる?物では無い意識が無くなったと、どうして第三者が断言できるのか?同様に本人が意識出来るはずもない。なぜなら意識が無い事を意識する事は不可能だからだ。意識が無い事を意識出来るとはすなわち、意識があるという事ではないか。
―人間は分かりたくない事はわかろうとしない。
・人間は自分が分かる事が正しい事、自分が分からない事を間違っている事と判断する。
・同様に、人間は分かりたくな事を分かろうとしない。自分の都合のいい事しか分かろうとしないのだ。
・真理とは、個人の言葉ではない。真理とは、誰の言葉でもないからこそ、誰のものでもあり真理なのだ。
 
参考文献 考える日々Ⅲ 池田 晶子