―存在とは何か

真理への飽くなき追究

人の不幸は欲する所にある

―人の不幸は欲する所にある。
・欲する事に限りはなく、いずれ、手に入らなくなる。
・人は手に入らない事を不幸に感じる。
・ゆえに、欲し続ける以上、必ず不幸になる運命にある。
・幸福を求める事も同様である。
・人は、幸福とは何か?という問い対し、今、現に存在しない状態を幸福と述べる。
・しかし幸福を求めるという事は矛盾している。なぜなら、今現に存在しない物を求めるという事は、永遠に幸福は手に入らないという事を自ら断言しているような物だからだ。
・断言する。今、現在を幸福だと思わない者に永遠に幸福は訪れる事はない。そして幸福とは欲する事を止めない限り永遠に訪れる事はない。
 
―私とは何ものでもない。私とは世界であり、すなわち宇宙である。
・私とは、認識に他ならない。私とは、言葉であり、それ以上でも、それ以下でもない。
私という言葉が生まれ、私という存在しない物が認識出来るようになり、あたかも存在するようになった。
・しかし、多くの者は、私とはこの肉体の事を示していると思っている。科学者であれば、私とは、脳という物質だと思っている。違う、そうではない。私とは認識出来るものであれば、何であろうと私になる事が出来る。ゆえに、私とはこの肉体の事だという自我は思い込みにすぎない。人間は眠る時に自我を消失する。夢の中では自他の区別が不可能である。何であろうと、自分だと認識する事が出来る。時に蝶になり、鳥になり、魚になり、異性になり、漫画のキャラクターにだってなれる。眠るとは、自我からの解放である。なぜ眠るのか?という問いに対し、自我からの解放とも言えるかもしれない。人生の1/3を眠っているとすれば、自分の肉体を私だと思っている時間は人生の2/3にすぎない。
・このように、私とは、認識できれば何でも私となる。この肉体だけが、私だと認識しているのは単なる思い込みにすぎない。大自然の中で、寝転がっていると、自我から解放され、自分の肉体は自然の一部となり、一体化する。すなわち、自我と自然が一体化し、私はこの肉体でもあり、この自然でもあり、そして宇宙でもある。ゆえに私の死とは存在しない。死体は存在するが、私は死体ではないからだ。肉体の生存とは存在の一形態に過ぎないのだ。万物は流転する。むしろ、肉体が生きている方が死んでいるより異常に思える。肉体は私ではない。私とはただ存在する。私とは何ものでもないが、なぜか存在する。宇宙は在るだけで完璧である。人類の営みなど、宇宙からすれば無いに等しい。だがそれでいいのだ。なぜなら宇宙は在る、そして私も在るのだから。
イエス・キリストは、人類皆兄弟と言ったが、その真意はいかに。
 
 
―疑い、考える者だけが、自由になれる。
・宗教とは信じる事だ。
・「宗教による自由」など存在しない。なぜなら信じるという事は、疑うという自由からの束縛である。ゆえに、「宗教による自由」は矛盾している。
・すべての事を信じていない無垢な脳などありはしない。あらゆる人は、民主主義、資本主義、法律、文化、科学、教育という「宗教」を疑いもなく信じこんでいる。教育とは洗脳である。ゆえに、あらゆる人は、自由ではなく、束縛されている。そしてあらゆる不自由は、信じ込んでいる自分自身により生じる。真の自由とは「自らの」自由を指す。自由になるには、信じている事を疑う事。すなわち考える事だけが、「自らの」自由となる。
 
―なぜ考えるのか?
・考えるのは知りたいという目的がなければいけない。それ以外の目的で考える事を考えるとは言わない。それは悩んでいるという。考える事と悩むことは次元が違う。悩むな、考えろ。
・人が恐るべきは、少子化でも年金でも、エネルギーでもない。馬鹿になる事だ。
・人間とサルの違いは何か?イチジクの実がなっている。サルはきゃっきゃと喜んだ。人間もきゃっきゃと喜んだが、ふと、「なぜ、私は喜んでいるのか?」と考えた。これが、人間と、サルの決定的な違いだ。しかし、最近はどうだ。欲望だけを追い求め、きゃっきゃと喜んでいるではないか。サルとどう違うのか。人間はサルから考えるという事において、サルから「進化」したが、今や、考える事を放棄し、サルに「退化」しようとしている。
・社会を変えるには教育が必要だ。教育とは、教える事ではなく、考えさせるという事だ。しかし、教育を変えるには社会を変えるしかないという矛盾をはらんでいる。
・人間の本質は何一つかわっちゃいない。考える事を放棄して、宗教を信じるようになったかと思えば、科学を信じるようになったにすぎない。信じるな、疑え、そして考えろ。
 
―他人は自分の鏡だ。
・仏教では「因果応報」という。すなわち自分の行いは、自らの鏡となって返ってくる。
・他人の事を疑うという事は、まぎれもなく自分が思った事なのだ。すなわち、自分の心が穢れている事を自ら証明したにすぎない。もし、他人を疑ってしまったら、自分の心の汚れを自覚し、反省するがよろし。
イエス・キリストが最後の晩餐において「この中に裏切り者がいる。だか、裏切る者は、不幸だ。生まれなかった方が、その者の為によかった」と言った。イエスを裏切ろうとしたユダが口を挟んで「先生、まさかわたしの事では」と言うと、イエスは言われた。「それはあなたの言ったことだ。」
・他人から根も葉も無い、疑いや言いがかりを言われたらこう言い返せばいい。「それはあなたが思ったことだ。」
・雑魚は群れる。いや群れるから雑魚なのだ。雑魚の相手などするだけ無駄なのだ。
 
―規範となる道徳や、倫理など存在しない。
・その時、その状況で、もっとも、対手の為になると思って選択した事が、最善の倫理である。時と、状況により、変わるのだから、規範とする倫理などない。むしろ倫理を規範する事自体間違っている。
・相手が何を考えているか考えようとしない人が多すぎる。
・多くの者は、見えているのに、見ようとしない。聞こえているのに、聞こうとしない。理解しようとしない。とはイエス・キリストの言葉だが、これはいつの時代でも変わらない。
・いつも人間は、相手が何を考えているか、考えようともせず、自分の欲求の事ばかり考えている。だから争いが起きる、殺人が起きる、戦争が起きる。
・「自分がしてほしい事は、相手にも行いなさい。」とイエス・キリストが言うように、相手が何を考えているか考えたら、つぎは、自分がしてほしいと思う事を相手にも行いなさい。
・自分の肉体はいずれ滅びる。時の試練を生き残れない価値の無いものだ。人間は本質的に「自分の肉体の為に」生きる事は無意味であり無価値なのだ。人が何かをするという事は、いかなる理由であれ、「人の為」にする事に価値がある。私とは言葉である。言葉は命そのものである。言葉こそが時の試練を生き残る、価値そのものである。
 
参考文献 考える日々Ⅱ 池田 晶子