―存在とは何か

真理への飽くなき追究

なぜ人を殺してはいけないのか?なぜ殺すのか?

―なぜ人を殺してはいけないのか?
・自らの価値を下げるからである。
 
―なぜ人を殺すのか
・価値を自らではなく、外に向けたからである。
・価値を外に向けたのは、自らに価値を求めていない事の裏返しである。
・人は生きている以上、他の命を奪って生きる宿命にある。私は草食主義だという人も、植物の命を奪っているに違いはない。ゆえに人が生きるている以上、他の命の痛みを伴う。
その命の痛み、重みを感じて生きていかなければいけない。
・故に人はただ生きていればいいという物では無い。長く生きる事がいいという事でもない。人の生きる価値は量ではなく、質にある。
・人間は、善く生き、正しく在るように生きなければいけない。之こそが人間が生きる価値である。ただ生きる事に価値は無い。そして、金、名誉、賞賛、あらゆる欲望の為に生きる事は、人が生きる価値とはならない。欲望の為に生きると言う事は、価値を自分ではなく、外に向けたからだ。しかし、人間の生きる価値とは、自分自身に在る。
人の価値とは心であり、正確には言葉である。言葉とは、その人、そのものであるからだ。
故に言葉とは価値そのものである。言葉はタダで使えるからといって、好き勝手にいい加減でくだらない事ばかり使う人がいる。そのような人は言葉の価値を分かっていない。
・真実を述べよ。意見を述べてはいけない。真実とは、自分の言葉ではない。ゆえに誰の物でもある。ゆえに真実である。意見とはその人にとっての真実である。ゆえに他の人にとっての真実ではない。
 
―言葉とは合気道と似ている節がある。
・言葉とは敵と戦い、敵を破る術ではない。世界を和合させ、人類を一家たらしめる道である。
・言葉の極意とは、己を宇宙の動きと調和させ、己を宇宙その物と一致させる事である。
・言葉の極意を会得した者は、宇宙がその腹中にあり、「我は、即ち宇宙」なのである。
・言葉とは無抵抗主義である。
・無抵抗在るが故に、初めから勝っているのだ。
・邪気ある人間、争う心のある人間は始めから負けている。
 
―私とは認識する物であれば何でもいい。
・蝶になった夢をみた。蝶である私を認識する事ができた。ゆえに私は蝶になった。
・人間になった夢をみた。人間である私を認識する事が出来た。ゆえに私は人間になった。
・つまり、「私」とは、実在する物ではなく、認識その物である。ゆえに、元から私など存在しないのである。ゆえに私は死ぬ事はない。死ぬのは、蝶であり、人間だ。ゆえに、私とは元々存在しない物だから、生きる事もないし、死ぬことも無い。無い物を在ると言えないし、無い物を無いともいえないのだ。
・ガンである事を告知するかどうかが問題になる場合があるらしい。しかし、なぜ問題にする必要があるのだろうか?まさか、ガンでなければ自分の肉体は死なないとでも思っているのだろうか?癌であろうと、なかろうと、人間は死ぬ。でも私は死なない。なぜなら、私とは認識その物であるから、元々「私」という認識として他の人の心に存在するので、私の肉体が無くなったからと言って、他の人から、私という認識が無くなる訳ではないからだ。
 
―なぜ人は他人と自分を比べようとするのか?
・自分を見ていないからだ。いや、自分を見ようとしていないから、他者にばかり目がいくのだ。だから有名人や他の人のうわさ話、ゴシップ話などのくだらない事ばかり気になる。そんなくだらない人間が多いから、メディアも、やれ誰が浮気だなんだとくだらない事ばかり垂れ流す。さらにくだらない人間が増える。
・常に変化し、常に新しい情報が目まぐるしく存在する。いわゆる情報化社会というやつだ。人は、膨大な情報の収取で、考える時間がないという。逆だ。変化に富む膨大な情報に流されない為にも、不変の知識を身に付けなければいけない。その為には考えなければいけない。
・外部からの情報を知るだけでは何の意味もなくそれは無駄でしかない。自ら考えて知る事だけが、自らの知識となり、血肉となる。ゆえに、人に何かを教えようとするのは無駄であり、間違っている。自ら考えさせる手助けが出来るだけであり、自ら考えさせないと、何も身に付けさせる事は出来ない。
・お勉強は情報を信じる事。学生に教えている事は本質的に無駄な事だ。お勉強が出来てもただのいろんな情報を「知っている」というだけでただの情報人どまり。今の時代、そんな情報コンピュータでも知っているのだからそれに何の価値があるのか?
・学問とは、情報を疑う事。大学に入ってからようやく学ぶ。大学とは、学問の真理を追究する場所であり、世の中の役に立てようとか、一見それに何の意味があるのか?という事ばかりであるが、学問の真理を追究するとはそういう事であり、金や名誉などの欲を追究すればするほど、真理を見失う。分からないという事は知っている。それでもなんとか分かろうともがく、それが学問である。
・哲学とは考える事。それ以上でもそれ以外でもない。哲学は人生のなかで学ぶ。誰にでも出来る事だが、多くの人はやろうとしない。知識の一番の土台に哲学があり、その上に学問が、その上に、お勉強がある。ゆえに、哲学とは、究極の学問であり、世界、いや宇宙の不変の真理を追究しようとする学問である。
 
―生活が良くなる事と社会が良くなる事は全く別物。
・高度経済成長、資本主義社会。物は豊かになり、生活は豊かになっても、社会が良くなったわけではない。
・人が善く、正しく生きねば、いくら、生活が豊かになっても、社会は良くならない。
・自殺者は年間3万人を超え、戦争時の死者よりも多い数となっている。
・平和になったが、死者は増えている。いったいどういう事か?
・すべては、価値を外に向け、価値を己に、内に向けなかった結果だ。
・資本主義社会は欲望主義社会である。生きる事は良いことだという人間は、ただ、己の欲望だけに価値を求めているに過ぎない。人間の欲望に限りはなく、生きる為に欲を満たすのではなく、欲を満たす為に生きている。まさに生きるという事を何か忘れてしまい、欲望を飼い馴らすどころか、欲望の奴隷に成り下がり、逆転してしまっている。
・人間が生きる価値とは善く生き正しく在る事に尽きる。価値を自らの内に求めなければいけない。そして人間の価値は、財産、名誉、肩書、学歴、職業などで決まるのではない。その人の言葉で決まるのだ。
「私とは心であり、正確には言葉である。」
 
参考文献 考える日々 池田晶子